中級検定試験の問題と解答を公表します。

11月15日(日)に実施された中級検定試験の問題と解答は、以下の通りです。
点数配分は、選択問題各2点、記述問題各4点で、100点満点です。
70点以上を、合格といたします。

※お詫び
 次の2問については、下記の理由により採点対象外とし、受験者全員が正解を得たものとみなします。出題の不手際をお詫びいたします。

【問33】
 講座に使用したレジュメに記載していない内容について解答を求めたものであり、レジュメの範囲から
 出題すると言うルールに反したものでした。 
【問41】
 正解となる選択肢が誤って標記されていましたので、真の正解はありませんでした。
 4)真狩太村 × → 4)真狩別村 ○

【問題】

次の1から7 までのテーマに関する文章をよんで、問【1】~問【45】の番号の設問に該当する答をひとつだけ選んで○をつけるか、 ( )の中に当てはまる言葉を記入してください。設問と回答は、別紙です。

【1:開拓以前】
明治以前の尻別川は、ある時期まで流域全体が【1】の漁業区でした。しかし、各所に越えがたい激流ポイント(ブイラ)があったことから、そのポイントを境に、下流、中流、上流で漁区は大きく3つに分割されるようになりました。河口付近下流域の漁業区はそのまま【1】の漁業区ですが、中流域に当たる倶知安の支流ソウスケ川付近は岩内から入ってきた【2】の漁業区となり、上流域喜茂別のルサンあたりは、虻田や有珠方面から通ってきた【3】とウスアイヌの漁業区となりました。この3箇所は、その後【4】の丁巳(【5】)の調査の際にも、尻別川に接近する際の3つの入り口となったのです。初めに磯谷から、次いで岩内からソウスケに入った武四郎は、そこから尻別川全体に調査を進めることは出来ず、結局、【3】の通い道に沿ってルサン付近で尻別川に入ることで、上流と下流それぞれに探索を進めることが出来たのでした。アイヌの3つのサケの道が、【4】の3つの探索導入経路となり、さらにこの3つの経路は、その後、開拓入植者の主な入地ルートとしても活用されることになります。裏日本からの入植者は、主に日本海岸沿いに北上して磯谷地区へ入地します。また倶知安ソウスケ川地区への入植者は、主に仁木、余市、岩内方面から入地し、その後ニセコ方面や京極方面へと広がりました。そして留寿都、喜茂別、真狩への入植者は、内地から虻田、有珠、洞爺を経由し入地しています。
これらの3つのルートの中で、最も早くから開けていたのは磯谷地区です。17世紀中ごろには既に漁業などに従事する和人が磯谷地区に住み着き、シャクシャインの乱では死者も出ています。さらに18世紀初頭から、磯谷地区の尻別川流域は、エゾマツの伐採事業を進めていた飛騨屋久兵衛の請負地区として開発が進められ、多くの和人が入り込んでアイヌとの混住が進んでいました。尻別川流域で伐採されたエゾマツなどは、激流ポイントを超えて流送するのが容易ではないことから、黒松内や余市、雷電などへの山道も切り開かれ、馬で搬出されるようになったといいます。このように、磯谷地区は漁業だけでなく、林業や自給程度の農業も行われるなど、当時の産業の集積拠点として発展し始めていたのです。当時蝦夷地への進出を目論んでいたロシアに対抗し重要な場所を警固するため、安政6年、幕府は庄内藩にその地の警衛を命じたのでした。そして10年後、明治維新を迎えます。

【2:幕末余韻の時代】
 明治2年、開拓使が設置され、蝦夷地が「北加伊道」即ち北海道と命名されると、北海道開拓の最初の仕組みが動き出しました。それまで蝦夷の各地に点在し経済的なまとまりを形成していた「場所」請け制度が廃止され、そのエリアの多くは「郡」として再編され、郡ごとに「【6】」と称される仕組みが導入されました。羊蹄山麓は大きく磯谷場所と虻田場所に分かれていたことから、磯谷郡と虻田郡が誕生します。【6】という制度は、明治維新によって地域経営が困難になった諸藩に対し北海道内に藩の経営領地を認める、というもので、いわば藩をまるごと北海道に移住させて、藩士に開拓の担い手になってもらおうという構想でした。磯谷郡には米沢藩と五島家、虻田郡には庄内藩(大泉藩)が進出します。しかし、武士階級にとって、未開の大地で自らクワを振るうというのは大変なことです。明治政府の意向に従って北海道の経営に手を染めたものの、諸藩のほとんどは早々に限界を露呈します。例外的に定着したのは、伊達紋別の亘理藩、当別の岩出山藩、静内の稲田藩でした。この制度は、廃藩置県の翌年明治5年には廃止され、北海道全土が開拓使に編入され、定住した3つの藩士にあっても、多くは武士から平民に降格され、一般の移住農民に準じた扱いを受けることになりました。
【6】の時代でこの地域の開拓にとって大きな意味があったことの一つに、【7】道路が開削されその沿線に【8】が創設されたことが挙げられます。【7】宗派が明治政府と関係の改善を図るうえで取り組んだ事業が、函館から札幌までの内陸道路の開削工事です。このコースの一部、虻田から札幌までは、【4】の【9】の調査ルートを辿ったもので、現在の【10】の前身です。開削工事には、【7】の僧侶だけでなく、信者、アイヌ、伊達に移住してきた亘理藩士たちも参加しました。明治3年の着工から1年半後の明治4年に竣工しますが、竣工後、東久世通禧、副島種臣ら政府の高官が、現地検分を行うため札幌から定山渓、中山峠を通って伊達まで踏破し、伊達邦成や田沼顕允らに【8】の開設を要請します。明治4年、伊達の【11】ら3名が喜茂別の相川あたりにはじめて【8】を設け、喜茂別町と留寿都村の礎となります。【7】道路は、その後峠越えの難所など不利な条件があったことからさほど利用されずに荒廃し、明治5年から開削工事が始まった千歳、苫小牧経由の【12】に主役の座を譲ります。また同年、【6】制度が廃止されたことで、行政区として新たに戸長役場「村」が設置され、既に和人の入植が進んでいた蘭越の港地区に【13】が設置されました。

【3:【14】の戦略の時代】
 明治5年、【6】の制度を廃止した開拓使は、行政の仕組みとして「村」を設置し、郡区町村といった大小の区画化を行うとともに、開拓の新たな制度として「北海道土地売貸規則」「地所規則」を制定しました。これは、北海道の開墾を希望する者に土地を安く分譲し、開墾成功までの一定期間税を免除するという優遇制度でした。しかし、この制度が廃止される明治15年までの間、羊蹄山麓では目立った開拓の動きはなく、【13】で漁業関係者などによる土地開墾がわずかに進められた程度でした。むしろこの時期は、伊達に創設された「【14】」による様々な産業振興策の影響が、羊蹄山麓にも波及して来た時代となったのです。
 【6】制度を廃止し移住士族の身分を平民に降格したことは、伊達に移住してきた亘理士族の開拓の意欲を大いに損なうことになりました。そこで開拓使は、彼らに一般移住農民と同様の経済的優遇策、すなわち金品の供与と移住経費の肩代わりを提案したのです。伊達の人々はこれらの多くを貯蓄し、明治9年、それらを原資に【14】という組織を創設しました。【14】というのは、亘理からの移住者全員を社員とし、共済、慶弔、物産振興、移出販売、船舶輸送、製糖、農場経営、牧場経営、【15】採掘などを行う、一種の共済組合あるいは産業組合のような組織でした。この仕組みによる地域経営を指導したのは、旧藩主である伊達邦成と筆頭家老の田村顕允でした。特に実質的なリーダーであった田村は、【14】設立の直後に虻田郡内を調査する旅に出て、ニセコアンベツ川で【15】の新たな鉱脈を発見し、3年後の明治12年には【16】の【15】鉱山採掘の権利を得て【15】を増産します。伊達とニセコ山系【15】鉱山を結ぶ道の中間にあたるのが、かつて【8】を置いた喜茂別相川ですので、【14】創設の一環として【11】に命じて【10】を再建します。かつて開拓使の戦略によって設置された喜茂別相川の【8】は、今度は【14】によるニセコ開発という戦略のために再建され、羊蹄山麓に新たな開発の波が訪れるきっかけを作り出すのです。丁度この時期は、内地で政府の緊縮財政により経済のデフレ傾向が強まり、企業倒産と失業が広がったことから、北海道への移住志向が強まった時期でした。しかし開拓使は、この時期においても、開拓を促進する有効な制度を何ら打ち出すことが出来なかったのです。
【4:開拓停滞の時代】
明治15年、開拓使が廃止され、三県一局制が敷かれました。これは、北海道を三分割して札幌県、根室県、函館県を設置し、地域特性に見合った統治を目指したもので、道外の県とは違い県議会などの自治機能はありませんでした。この三県一局時代は明治18年まで続きましたが、この間、開拓促進策にはとりたてて見るべきものがなく、また、市場経済の波が北海道にも押し寄せてきた時代の変化に対応できなかった【14】も、明治17年には活動を事実上停止し、【15】鉱山の経営権も明治19年三井物産に譲渡しています。近代的な【15】採掘工法へと移り行く、時代の大きな境目でもあったのです。ちなみに、三井物産による近代的な【15】採掘は昭和12年まで続き、日本の産業発展を支える原動力の一つとなったのでした。この時代、明治15年には、その後の羊蹄山麓7町村誕生の母村となった【17】が誕生しています。そしてもうひとつ、この地域の歴史に大きな影響を与える出来事がありました。
 明治18年、岩内の佐藤亀太郎という人が、ニセコ山系【18】の南麓で【19】を泉源とする間欠泉を発見します。当時【18】南麓では、英国ハウル社が【15】を採掘していました。佐藤は岩内の漁業資本家から資金援助を受けて湯治宿を建て、馬場温泉とします。これが、その後経営者が変わって現在の【20】となります。ニセコ山系で最も古いこの【20】は【15】鉱山を母体に誕生し、ニセコ山系が【15】産出の山から温泉観光の山へと変わっていく大きなきっかけとなったのでした。

【5:【21】の時代】
 明治19年、三県一局が廃止され、北海道庁が設置されます。北海道庁はこの年、「北海道土地払下規則」を発令しました。北海道の開拓は、この制度の発足によって大きく前進します。従来の制度は、北海道内の土地を素地のまま、どんな特性の土地なのか充分な情報がないまま売却していましたが、今度は、「【21】5カ年計画」に基づいて道内の主要な原野を全て測量し、その土地の特性に関する情報をまとめ、どのような用途に適している土地なのか評価を加えた上で選定し、一定の面積を入植希望者に提供し、所定の年限で開墾に成功した人にその土地を払い下げる、という制度でした。現在の新十津川の原野を手始めに、全道各地で測量が行われ、羊蹄山麓では明治22年までに倶知安原野などで測量が実施されました。明治29年まで続けられた測量の結果は「【21】報告」として公示されたことから、これをもとに入植を希望する「出願」が各地に殺到したと言います。
 この時代、羊蹄山麓の開拓促進に寄与するもうひとつの大きな出来事がありました。開削直後から荒廃し続けてきた【7】道路のルートを再開発する道路工事が明治23年から始まり、明治27年に竣工したのです。【7】道路とは一部コースが異なるこの道路こそ、後の【10】の原型となったのでした。この道路「仮定県道札幌虻田間」の開通に合わせて、喜茂別では【11】が路線沿いの尻別地区に【8】を移し、道路工事に携わった人たちも別の【8】を造りました。
 【21】の影響は、ほぼ全ての地域に波及しました。原野の測量調査を伝え聞いた人の中から、開拓の先駆者が生まれます。留寿都村(当時は虻田村)では、明治19年橋口文蔵が土地の払下げを受けて米国式の機械化大規模農場を導入しますが、失敗して明治24年に加藤農場となります。また、【21】報告で倶知安原野の可能性に魅力を感じた仁木村の仁木竹吉の呼びかけに応じ、仁木、余市、岩内の同志が共同で出願の組合を作り株主を集め、【22】に【23】ら15名がソウスケ川合流地点あたりに入植します。この年を、倶知安町では開基としています。しかし、倶知安からニセコにかけての一帯は【24】となっていたことから土地払下げの出願は認められず、出願組合は一旦解散します。彼らの一部は、倶知安の尻別川沿いに立地していたマッチの軸木工場などで就労し、再出願のときを待ちます。そして明治27年、【24】が開放され官林に編入されたことで、倶知安原野には様々な農場、移住団体などが入植したのでした。また、【24】が解除されたニセコにおいても明治29年に【25】が進出し、その後の大農場によるニセコ開拓のはじまりとなることから、ニセコ町ではこのときを開基としています。真狩においてもマッカリ原野の区画整理に伴って個人移住者が入植し、なかでも神原弥吉らが入植した明治28年をもって真狩村の開基とされました。蘭越においても、石川県から集団入植が行われるなど開拓は進みました。
この時代、温泉の開発も引き続き行われ、明治27年には倶知安にはじめて入植した【23】ら3名による山田温泉の発見(営業開始は【26】)、明治29年には磯谷地区の成田元吉による成田温泉(後の【27】)が発見されました。成田温泉も、磯谷地区の漁業資本家の資金支援により営業が行われています。このような入植開拓の進展により、特に入植が多く定住者が増えた倶知安では、【28】虻田村から倶知安村が分村し、戸長役場が設置されました。現在の京極町地域を含めての分村でした。

【6:入植と開拓の本格的展開の時代】
 【29】、それまでの土地払下規則に替えて、「北海道国有未開地処分法」が発布されました。これは、開拓予定の土地を無償で貸付け、開拓が成功したときに無償で付与する、という制度で、付与を基本としつつ、売払、交換、貸付なども組み合わせるという、多様で柔軟な仕組みとしてスタートしました。この【29】、【30】京極高徳子爵が貸付の出願をしました。この大農場【31】設立の年を、京極町では開基としています。【31】は代々優れた管理人に恵まれたことなどから安定的に発展し、農場の一部が市街地になって、明治43年には【32】として倶知安村から分村するほど発展しました。京極村と改称されるのは、昭和15年です。また、明治31年には、【31】の開墾指導者藤村徳治が【33】の上流で鉄鉱石の鉱脈を発見し、大正5年に【34】が採掘権を得て脇方鉱山として本格的な採掘を進めるきっかけとなりました。後の大正8年に倶知安から京極まで鉄路京極線が敷かれるようになったのも、脇方鉱山で採掘された鉄鉱石を室蘭に輸送することを主たる目的としていましたので、羊蹄山麓の広域交通網が整備されるようになった背景として、【31】の存在が大きかったと言えます。
 大農場がまちの開基となった京極町と似ているのが、大農場【25】が開設された明治29年を開基としたニセコ町です。当時狩太と称されたこの地区は、【25】以降も次々と大農場が開設されましたが、中でも有名なのが、明治32年に開設された山本農場(後の【35】)であり、翌明治33年に開設された曽我農場です。特に山本農場は、その後明治41年にアメリカ留学から帰国して北大に戻った有島武郎に名義が変更され、【35】となりました。大農場が次々と開設されたことにより小作人の入植が進み、明治34年に真狩村から最初に分村して、【36】が誕生しました。また明治32年は、尻別村が南部蘭越地区の南尻別村と北部港地区の北尻別村に分村した年でした。蘭越町は、この分村を開基としています。ちなみに、南尻別村と北尻別村は昭和29年に再度合併して蘭越村となっています。
 この時代最大の出来事は、明治37年の【37】の開通でしょう。函館から小樽までの幹線鉄道が開通し、各駅を拠点に殖民道路も拡張されたことにより、内陸への入植・開拓は飛躍的に拡大し、その後の団体入植にも大いに寄与したのでした。北海道鉄道は、また羊蹄山麓の新たな観光開発にも大きな役割を果たしました。比羅夫駅に降り立った旅行者を【38】の登山に誘う山岳観光戦略だけでなく、蘭越、倶知安地区では温泉の宣伝に力を入れました。特に、比羅夫駅に近い山田温泉、昆布駅に近い成田温泉、馬場温泉、宮川温泉、新見温泉、そして昭和の末まで一世を風靡した青山温泉など、ニセコ山系各地の温泉地が、一気に観光の最前線に躍り出てきたのです。
 入植・開拓が一気に進んだこの時代には、大農場など資本の導入は大きく前進したものの、不在地主と小作が増えたことや、投機的な土地漁りも横行するようになったことから、自作農向けの新たな土地は少なくなる一方でした。このままでは健全な農業開拓とは言えない、そんな閉塞感が北海道全体に広がってきた明治39年、自作農による自由な農場創造を目指した平民農場が留寿都地区に生まれ、また二級町村制が施行され第1回村会議員の選挙も行われました。平民農場は2年後に早くも挫折して童謡「赤い靴」の悲話を残しましたが、第1回村会議員選挙の実施はその後の地方自治制度進展の一里塚となりました。

【7:自作農創出支援の時代】
 明治41年、「北海道国有未開地処分法」が改正されました。耕作目的の居住地を特定することで不在地主化を防ぎ、自作農に対する無償貸与など支援を手厚くする内容となりました。また同年、団体入植に対する優遇策の条件を緩和し、団体移住がしやすくなるような措置も講じました。団体移住については、明治25年に30戸以上を団体移住とみなす規定が定められていましたが、明治39年には20戸以上、そして41年には10戸以上、と条件が緩和されたのです。この団体移住支援策を活用して、各地で団体移住が増える傾向にありました。特に規模の大きな団体移住として、明治41年から始まった【39】があります。京極、倶知安、喜茂別に延べ数百戸の移住が見られ、その後の各地の分村運動に少なからぬ影響を与えました。他にも、福島団体、阿波団体、越中団体、南部団体、群馬団体などが各地で展開されました。しかしその多くは、すでに良好な農地が少なくなっていたことなどから開拓がうまくゆかず撤退していきますが、一時的であれ地域の人口が急増したことにより地域経済と地域社会に大きな影響を与えたことから、分村、自立の流れを加速させました。明治43年には倶知安村から【32】が分村(昭和15年に京極町に)、大正6年には真狩村から【40】が分村、そして大正11年、真狩村から【41】が分村し、現在の羊蹄山麓7町村それぞれが自立したのです。真狩村は大正14年に留寿都村と改称し、【41】は昭和16年に真狩村に改称しています。
 団体入植が行われしかもその多くが撤退したことで、北海道への入植と開拓の時代は一段落したことになります。明治の終わり頃です。この間にニセコ山系の温泉の開発もほぼ出揃いました。明治41年には岩内の新見直太郎によって新見温泉が発見され、翌明治42年には青山温泉で【42】が営業を開始し本格的温泉旅館の幕開きとなりました。この青山温泉【42】を拠点に大正8年から北大スキー部の合宿が始まり、また大正10年に【43】を拠点に小樽高商スキー部の合宿が始まることによって、ニセコ山系は本格的な温泉とスキー観光の曙を迎えたのでした。【44】も大正9年に営業が開始され、経営者の一人稲村道三郎が、倶知安からのアクセス道路を開削しています。昭和2年の【45】開業により、今日のニセコの温泉はほぼ出揃い、その後は、平成元年に青山温泉が廃業するまで、温泉の栄枯盛衰が続いたのです。
 大正となったこの時代、羊蹄山麓の開拓時代を締めくくる二つの歴史的出来事がありました。ひとつは、大正5年に【34】株式会社による脇方鉱山の開発が始まり、室蘭へ鉄鋼石を輸送するため大正8年に倶知安から京極まで京極線が開通し、同年脇方鉱山まで延線され、さらに昭和3年喜茂別まで鉄道が引かれ、昭和16年には胆振縦貫鉄道が開通され、戦時下における鉄鋼石の需要拡大に大きく影響したのです。昭和19年に国鉄となった胆振線は昭和61年に廃線となり、その歴史的役割を終えています。
 そしてもうひとつは、大正11年の有島武郎による【35】の解放です。有島武郎は自身の思想的信念から小作農の存在に苦しんでいました。水田灌漑工問題をきっかけに国から圧迫を受けながらも、有島は自らが所有し経営していた全農地を、農場の小作人に無償で解放したのです。この農場開放はその後、他の大農場にも波及し、昭和13年の【31】の解放に至るまで、この地域の農業経営のあり方に極めて大きな影響を与えたのでした。しかも、【35】の解放は、単に農場を小作人個々人に無償で分け与えたのではなく、小作人全員が共同で農場を経営することを条件に無償で譲渡したのです。狩太共生農団利用組合が大正11年に設立され、有島の理想実現に向けた第一歩が記されたことを見届けたかのように、翌大正12年、有島武郎の自殺が報じられました。自作農の推進を目指した北海道庁の開拓政策とは全く異なる理念と方法で、有島武郎は北海道開拓の歴史を新たな地平に向けて解放したとも言えます。

※設問は以上です。


【解答】

※正解は、アンダーラインで示します。

【1:開拓以前】                                                   
【問1】該当するのはどれですか。
  1)イソヤアイヌ  2)イワナイアイヌ 3)アブタアイヌ 4)レブンゲアイヌ
【問2】該当するのはどれですか。
  1)イソヤアイヌ  2)イワナイアイヌ 3)アブタアイヌ 4)レブンゲアイヌ
【問3】該当するのはどれですか。
  1)イソヤアイヌ  2)イワナイアイヌ 3)アブタアイヌ 4)レブンゲアイヌ
【問4】該当する人名を記入してください。
    (松浦武四郎)                             
【問5】該当するのはどれですか。
  1)安政3年  2)安政4年    3)安政5年   4)安政6年

【2:幕末余韻の時代】                                                   
【問6】該当するのはどれですか。
  1)商い場  2)諸藩分治    3)奉公人前高  4)屯田兵制度
【問7】該当する宗派名を記入してください。(※お寺の名称です)
    (本願寺)                                          
【問8】該当するのはどれですか。
  1)渡船場  2)宿場      3)道の駅    4)駅逓
【問9】該当するのはどれですか。
  1)丙辰   2)丁巳      3)戊午     4)己未
【問10】該当するのはどれですか。
  1)国道276号  2)国道5号    3)国道36号  4)国道230号
【問11】該当するのはどれですか。
  1)伊達邦成    2)田村顕允    3)阿部嘉左衛門 4)萱場元賢
【問12】該当するのはどれですか。
  1)札幌新道    2)苫小牧新道   3)室蘭新道   4)函館新道
【問13】該当するのはどれですか。
  1)磯谷村      2)目名村     3)虻田村    4)尻別村

【3:【14】戦略の時代】                                                   
【問14】該当するのはどれですか。
  1)水平社     2)平民社     3)永年社    4)万民社
【問15】該当するのはどれですか。
  1)硫黄      2)鉄鋼石     3)石炭     4)石油
【問16】該当する山名を記入してください。
     (イワオヌプリ )                   

【4:開拓停滞の時代】                                                   
【問17】該当するのはどれですか。
  1)磯谷村      2)目名村     3)虻田村    4)尻別村
【問18】該当するのはどれですか。
  1)ニセコアンヌプリ 2)チセヌプリ   3)イワオヌプリ 4)ニトヌプリ
【問19】該当するのはどれですか。
  1)神仙沼      2)鏡沼      3)大湯沼    4)長沼
【問20】該当するのはどれですか。
  1)湯本温泉     2)昆布温泉    3)湯の里温泉  4)薬師温泉

【5:【21】の時代】                                                   
【問21】該当するのはどれですか。
  1)北海道開発    2)殖民地選定   3)北海道開拓  4)土地売貸
【問22】該当するのはどれですか。
  1)明治25年    2)明治29年   3)明治30年  4)明治32年
【問23】該当するのはどれですか。
  1)鈴木重慶     2)杉目大三郎   3)米田和一   4)山田邦吉
【問24】該当する用語を記入してください。
     (御料林)                     
【問25】該当するのはどれですか。
  1)松岡農場     2)松川農場    3)宮田農場   4)吉川農場
【問26】該当するのはどれですか。
  1)明治27年    2)明治30年   3)明治44年  4)大正14年
【問27】該当するのはどれですか。
  1)湯本温泉     2)昆布温泉    3)湯の里温泉  4)薬師温泉
【問28】該当するのはどれですか。
  1)明治25年    2)明治29年   3)明治30年  4)明治32年

【6:入植と開拓の本格的展開の時代】                                                   
【問29】該当するのはどれですか。
  1)明治25年    2)明治29年   3)明治30年  4)明治32年
【問30】該当するのはどれですか。
  1)旧津軽藩主    2)旧白石藩主   3)旧丸亀藩主  4)旧南部藩主
【問31】該当する農場名を記入してください。
     (京極農場)                        
【問32】該当するのはどれですか。
  1)東倶知安村    2)西倶知安村   3)南倶知安村  4)北倶知安村
【問33】該当するのはどれですか。
  1)寒別川      2)ワキカタサップ川 3)ペーペナイ川 4)カシプニ川
【問34】該当するのはどれですか。
  1)住友鉱山     2)三菱鉱山    3)国家炭鉱    4)三井鉱山
【問35】該当するのはどれですか。
  1)曽我農場     2)有島農場    3)近藤農場    4)深貝農場
【問36】該当するのはどれですか。
  1)狩太村      2)ニセコ村    3)有島村     4)曽我村
【問37】該当するのはどれですか。
  1)北海道鉄道    2)函館本線    3)胆振縦貫鉄道  4)胆振線
【問38】該当するのはどれですか。
  1)蝦夷富士羊蹄山  2)ニセコアンヌプリ 3)尻別岳    4)岩内岳

【7:自作農創出支援の時代】                                                   
【問39】該当するのはどれですか。
  1)長野団体     2)岐阜団体     3)宮城団体    4)山梨団体
【問40】該当するのはどれですか。
  1)東倶知安村    2)喜茂別村     3)ニセコ村    4)真狩太村
【問41】該当するのはどれですか。                     別
  1)東倶知安村    2)喜茂別村     3)ニセコ村    4)真狩太村
【問42】該当するのはどれですか。
  1)不老閣      2)雪秩父      3)幽泉閣     4)山の家
【問43】該当するのはどれですか。
  1)井上温泉     2)宮川温泉     3)小川温泉    4)黒沢温泉
【問44】該当するのはどれですか。
  1)五色温泉     2)宮川温泉     3)紅葉谷温泉   4)黒沢温泉
【問45】該当するのはどれですか。
  1)五色温泉     2)宮川温泉     3)紅葉谷温泉   4)黒沢温泉


梅田 日時: 2009年11月18日 05:12