お詫び:平成21年度初級検定試験の【試験問題】は、次の通りです。

本ホームページのトップページにリンクとアイコンで掲載されている「初級検定試験」に、
解答のみが掲載されており、試験問題そのものが掲載されていませんでした。

これは、初級検定試験を受験予定の方からご指摘いただいたものです。

大変申し訳ありません。
心よりお詫び申し上げます。

改めて、平成21年度の初級検定試験の問題を、
トップ画面のリンクPDFとアイコンとして掲載しました。
また、念のため、本記事の下記にも掲載いたします。
なお、正解は、トップ画面のリンクPDFとアイコンですので、ご確認ください。
(平成21年度の初級試験は、試験問題用紙と解答用紙が分かれていましたので、
 別々のPDFとなっています。ご了承ください。)


<平成21年度初級検定試験の試験問題>

第3回
観光ガイド育成検定試験
【初級】
平成21 年11月15 日

 注 意 
1.開始の合図があるまでは、答案用紙を開かないでください。
2.開始後40分が過ぎる前に会場を退出することはできません。

羊蹄山麓商工会広域連携協議会

次の1から11 までのテーマに関する文章をよんで、問【1】~問【50】の設問に
該当する答をひとつだけ選んで○をつけてください。設問と回答は、別紙です。

1:「羊蹄山」山名の起源                              
 「羊蹄山」は、「後方羊蹄山」と記されることもあります。この「後方羊蹄」の名を始めて記した史書は、【1】です。この中に、659(斉明5)年、【2】が百八十艘の軍船を率いて北征した際、二人の蝦夷から「後方羊蹄をもって政所とすべし」と進言があり、「後方羊蹄」に郡庁を置いて帰った、と記されています。【1】は「後方羊蹄」を「【3】」と読ませていますが、その地が実際にはどこなのか、日本の歴史における謎のひとつとして多くの史家や探検家たちの想像力をかきたててきました。東北北部や北海道など諸説ある中で、有力な説のひとつと言われてきたのが、「【4】のそばにある高地」という説です。喜茂別町の尻別岳山麓は、多くの歴史的人物によって「後方羊蹄」の地と信じられてきた場所で、その近くには【2】を祀る【5】が建立されています。


2:「羊蹄山」山名の変遷                              
 「羊蹄山」と「尻別岳」は、ともに尻別川流域に並ぶ山ですが、和人の紀行文や古地図の中では、この両者はしばしば取り違えられています。“尻別川の地こそが「後方羊蹄」である”と記したのは【6】の「蝦夷志」ですが、「後方羊蹄」と「尻別」の読みが近いこともあって、その後さまざまな混乱が続きます。江戸時代に記された文献や古地図のなかでは、「羊蹄山」は様々な名称で記録されていますが、その多くは「尻別」という文字を伴うなど、混乱ぶりが伺えます。しかしアイヌの人たちは、前者を「マチネシリ(女の山)」、後者を「【7】(男の山)」と、区別して呼んでいました。一方、明治政府の公文書では「後方羊蹄山」が公式に使用されますが、明治20年代には、測量技術者とその関連官庁や学術研究者が「マッカリヌプリ」と公文書にも表記する例が見られました。
北海道への入植者が急増するに従い、「後方羊蹄山」の読み方が難しいなどの理由から、その山容にちなんで「蝦夷富士」と称されることが増え、【8】からの要望もあって、昭和40 年代の地形図からは「羊蹄山(蝦夷富士)」と記されるようになったのです。


3:羊蹄山観光開発の始まり                           
 羊蹄山麓の観光史にとって、【9】は忘れることのできない年です。この年、大量輸送を可能にした北海道鉄道が【10】から函館まで開通したことで、それぞれ地元の駅名をどうするか大きな関心事となりました。倶知安村では、尻別川が大きく蛇行する【11】地区あたりに作られた駅を【12】駅と名づけ、旅行者の関心をこの地にひきつけようという動きが生まれます。この動きの中心にあったのが、【13】です。彼らは、旅行者の関心を「後方羊蹄山」に誘うため、【12】駅から羊蹄山頂に至る登山路を開削します。この倶知安コースは3番目の登山路です。途中に土産品を扱う休憩所を設けたほか後方羊蹄神社を開山するなど、比羅夫伝説を大いに活用した観光戦略を推進しました。仰ぎ見る山であった羊蹄山への登山をきっかけに推進した、観光開発の始まりです


4:羊蹄山は二重構造の火山

 羊蹄山は、富士山同様、内部は複雑な構造となっています。羊蹄山ができたのは約1万年ほど前ですので、かなり新しい火山と言えます。羊蹄山の生成は【14】の形成から始まりますが、これはおよそ【15】級の火山です。これを覆い隠すように東側に多少ずれる形で「本体火山」が形成されましたので、「本体火山」の火口は【14】の火口より東側にずれています。その噴火の過程で、西側に【14】を包み込んだふくらみを感じせる今の山の形ができたのです。真狩側から見ると、西側にそのふくらみ具合が顕著に見えます。山肌を見ると、谷筋が急に曲がったり分岐したりしているところがありますが、これは【16】と言われます。その場所で基盤岩が異なっているために生じた地形ですが、羊蹄山の場合、この曲点は概ね同じ標高に現れ、これらを横につなげると、山が3つに輪切りされます。このことからも、羊蹄山が大きく3つの時代によって形成されたことがわかります。羊蹄山は、今日【17】つの自治体によって放射状に構成されており、平成2年に確定された標高は、【18】です。頂上には、大火口(父釜)を含め3つの噴火口が見られるほか、【19】など複数の寄生火山も見られ、羊蹄山の複雑な生成過程を物語っています。


5:レルヒ中佐のスキー登山                           
 明治45 年、【20】軍人テオドール・フォン・レルヒが、旭川の第7師団に着任し、早速羊蹄山へのスキー登山を敢行しました。スキー登山に先立って、レルヒは倶知安町旭丘地区の小高い山で地域住民に1 本杖スキー術を披露していますが、これがこの地域でのスキー普及に大きな影響を与えました。羊蹄山へのスキー登山は、第7 師団の若手将校を伴い行われ、【13】や【21】の同行取材と報道によって脚光を浴びました。今日ではスキーはニセコ山系で隆盛を極めていますが、その源流はレルヒ中佐の羊蹄山スキー登山だったのです。第7 師団の将校たちはスキー術を【22】の学生スキー部に伝授し、【22】学生スキー部はその後、冬期間青山温泉不老閣に毎年のように合宿して近くの斜面で練習を積んだことから、周辺の住民にもスキーの楽しさを印象付け、ニセコ山系におけるスキーの歴史に大きな足跡を残します。レルヒ中佐の像は【23】のレルヒ記念公園にあります。


6:「ニセコ」の名称にまつわる歴史の謎                      
 全国的に有名になった「ニセコ」はニセコアンヌプリの略称ですが、ニセコアンヌプリは山容の穏やかなイメージとは異なる【24】という意味を持っています。この地名も不思議ですが、明治20年代以前の地図には、隣にある【25】は載っていても、ニセコ山系の主峰ニセコアンヌプリの名称は載っていないのです。この謎は、「ニセコ」がかつてどのような地域であったのかを物語っています。つまり、【25】やニセコアンヌプリなどは、いずれも幕末から硫黄の採掘現場だったので、総称して「硫黄山」と呼称され、最も標高が高く景観としても目立ったはずのニセコアンヌプリには、明治20 年代まで「硫黄山」以外の固有名詞が付かなかったのです。硫黄の採掘については明治政府も企業も大きな関心を寄せ、鉱山技師【26】も明治6年から調査を行っています。経営体が交代しながら硫黄の採掘は昭和12年まで続けられ、なかでも、明治12年から19年まで採掘の経営に当たった永年社と、その後を引き継ぎ近代的な採掘設備を導入して生産量を大幅に伸ばした三井物産は、地域の歴史にも大きな影響を与えました。


7:温泉とスキーが創った「ニセコ」ブランド                     
 ニセコ・羊蹄山麓の温泉史は、明治30年に開業した【27】に始まります。その場所にその後、ニセコひらふスキー場が開設されますので、ニセコ山系における温泉とスキーの結びつきを象徴する幕開けと言えます。北海道鉄道がこの地に駅を設け、蝦夷富士羊蹄山への登山観光が開始された年には、【28】が開業します。今の昆布温泉郷のなかにある温泉の一つです。鉄道の乗客が温泉に関心を持たないはずはなく、この頃からさまざまな温泉が開業します。【28】には【22】学生スキー部が毎年合宿し、同じ昆布温泉郷の【29】(現在の鯉川温泉)には小樽高商のスキー部が合宿し、温泉とスキーの結びつきを深めます。昭和3 年、スイスの【30】で第2回冬季オリンピックが開かれ、日本からもはじめて選手が派遣されました。連日の報道により、日本国内でも【30】は耳馴染みになります。この冬季オリンピック終了直後、秩父宮さまが【28】の不老閣に宿泊してスキー登山に臨みます。地元では、スキーに堪能な警察官や北大スキー部の学生などが随行したと記録にありますから、既にスキーは一部では普及していた頃でした。秩父宮さまは、ニセコアンヌプリとチセヌプリに登りますが、いずれも悪天候のため目的を達せず、遭難騒ぎまで起きます。この一部始終が小樽新聞社によって全国に発信されたことから、ニセコ山系の雪質が【30】にも劣らないパウダースノーであることが全国に知られ、「ニセコ」の名が一気に全国区となったのでした。平成になって、【28】は大きな歴史的役割を終えるかのように、その華々しい歴史を閉じます。


8:羊蹄山麓の湧水                                
 羊蹄山の裾野には、1日に2,000トン以上湧出している湧水地が約17箇所あります。日本の名水100 選にも選ばれた【31】の噴出し公園はその代表例で、観光地としても有名です。ほとんどの湧水は、標高【32】前後にある溶岩と粘土層の境目から湧出しています。全体で1日に【33】も湧出していますが、京極町から真狩村にかけての東側半分6 箇所で全体の70%を超えています。特に、京極町の湧水は、公式ホームページによると1日に【34】も湧出しているので、計算上は1 秒に1 トン近い湧出量になります。このような湧出量の偏りは、羊蹄山の内部が東西に対称でないことに原因があります。火山山麓の湧水が美味しいのは、雨水などが地中を流下する際きれいにろ過され、カルシウムやマグネシウムなどのミネラルが適度に溶け込み、水温も【35】とほぼ一定しているからです。この水質についても、羊蹄山の東側と西側では違いが見られます。水量が多い東側では西側より地中の流下速度が速く、結果的にミネラルの成分がやや薄くなります。各地の湧水は、ミネラルの成分やその濃度などの違いによって、それぞれ個性的な味わいとなっています。湧出量の多い羊蹄山麓の町村では、湧水を用いてさまざまな関連商品を開発し販売しています。


9:松浦武四郎による尻別川の踏査                                                  
 後に「北加伊道」(北海道)の名付け親となった松浦武四郎が、江戸幕府の命により尻別川をはじめて踏査したのは、【36】のことです。この年の春、彼は最初尻別川の河口から川を遡りますが、激流に阻まれ目名地区(蘭越町)のあたりで遡上を断念し、引き返します。続いて、共和町国富のあたりから倶知安に抜けてソウスケ川に出ますが、その周辺も激流に阻まれて断念を余儀なくされたのです。同年の夏、今度は虻田から留寿都を通りぬけて、【37】の留産地区あたりで尻別川に出ます。そこから尻別川の上流に向けて遡り、鈴川地区のあたりで引き返し、今度は川を下って、途中「フイラ」と言われた激流ポイントを何箇所も超えて、やっと河口にたどり着きます。
翌年、武四郎は再び虻田から【37】の留産地区あたりに向います。今度は尻別川の支流喜茂別川を遡り、中山峠を越えて石狩に抜けます。このときのルートはその後、明治3年から開削された【38】の基となり、今日の国道230 号に結実します。この2回の調査結果は公式の報告書として幕府に提出されましたが、公開が禁止されたことから、武四郎はその内容を一般に広めるため、安政6年に「後方羊蹄日誌」を著します。この中で、武四郎は後方羊蹄山に登ったと記していますが、最近の研究で、これはフィクションであることがほぼ確実となっています。後方羊蹄山の素晴らしさを多くの人に伝えたいという、武四郎の想いが表れていると言えるといえるでしょう。


10:尻別川流域の生活圏と川利用のルール                     
 尻別川は流路延長129 キロメートルで、流域自治体は後志支庁管内の【39】を含む全9市町村、源流域にあたる自治体は【40】です。尻別川には多くの支流がありますが、羊蹄山の南側を巻き込むように流れるのは最大の支流【41】です。二度に亘って尻別川を探検した松浦武四郎が描いた古地図には、この【41】も羊蹄山の北側を流れているように描かれています。流域の主な産業は農業ですが、農業用水や発電用のダムが尻別川には6箇所あります。その全てに魚道が設置されるようになったのはこの10 年間の出来事ですが、NPOを含む住民の要請とこれに応えたダム所有企業による流域連携の成果と言えます。しかし、河川改修によって【42】の生息環境が少なくなり、姿が消えたと言われています。河口付近ではヤツメウナギなどの内水面漁業も盛んで、近年はラフティングなどの新しいアウトドアスポーツも大勢の観光客を集め、冬のスキーに勝るとも劣らない夏の観光産業として隆盛を極めるようになりました。このように、川の多様な利用形態が混在するようになったことから、それぞれの利害や利用形態の調整を図るため、NPO など住民が中心になって、2000 年にそれぞれの利害を調整して川利用のルールを作りました。また、川利用のルールに公的な拘束力をもたせるため、流域7町村が広域で【43】を制定し、尻別川の恵みを後世に伝えるべく努力しています。このような流域全体の協働による自治活動の成果などもあって、尻別川はこれまでに8回、国土交通省が認定する「清流日本一」の栄誉に浴しています。


11:農と食                                    
 羊蹄山麓の農業は、畑作と水田が大きな特徴となっています。地域の名前がブランド化した【44】の米、日本一の生産量を誇る【45】のユリ根、かつては生産量が日本一だった喜茂別町の【46】などが代表的な農作物です。しかし、この地域のもっとも大きな特徴となるブランド農作物はジャガイモです。明治初期にさまざまな品種のジャガイモが導入され品種改良も行われ、大正末期には【47】がこの地域の代表的な品種に育ちました。昭和10 年代には、【48】で紅丸が誕生、羊蹄山麓はジャガイモの一大生産地となりました。収益性の高いジャガイモは連作になりがちで、昭和40 年代には、羊蹄山麓において日本で初めて【49】による被害が発生、深刻な事態となりました。3輪作から4輪作を中心とする輪作体系の徹底と抵抗品種の開発により、【49】は今日ほぼ克服されています。特に、抵抗品種の中でも留寿都村の農家がその普及に努力した【50】は、調理のしやすさや食味の点でも消費者に歓迎されています。このような抵抗品種や輪作の組み合わせによって、羊蹄山麓の各町村はそれぞれが個性的で多様なジャガイモ産地を形成しています。京極町や倶知安町では「男爵」の生産割合が非常に高く、留寿都村や喜茂別町では【50】が割合に多く、ニセコ町や真狩村では多品種という特徴が見られるようになりました。

設問は以上です


日時: 2010年07月12日 22:41