研修講座に使用した「レジュメ」を公開します。

初級と中級の研修講座が終了しました。
併せて172名のお申込みがあり、研修講座にご参加いただきました。
ご参加いただきましたみなさまには、厚くお礼を申し上げます。
初級と中級では、共通のレジュメを使用しましたので、この場に公開いたします。

・レジュメの中の下線の部分は、「中級」研修講座の内容です。
・下線のないない部分は、「初級」研修講座の内容です。
・それぞれの守備範囲について、特にチェックしてください。
・全体の物語性とそれを構成する重要なキーワードが、チャック上のポイントです。
・中級の場合、初級対象の部分からの出題も無きにしも非ずですので、復習をお願いします。
・初級の設問は全て4択、中級の設問は4択とキーワード書き込みによる穴埋めの組み合わせです。

※内容について不明の点などありましたら、遠慮なく質問などお寄せください。
 最寄の商工会・商工会議所、もしくは、このサイト宛にメールでご質問をお願いいたします。

■「レジュメ」は次のとおりです。

2008年度【ぐるっと羊蹄まちしるべ】研修講座:初級&中級/レジュメ
羊蹄山麓観光ガイド:ミニストーリー
2008.10.27~/羊蹄山麓商工会広域連携協議会
http://www.36guide-ikusei.net/
(公式テキストブック『ぐるっと羊蹄まちしるべ』は、上記サイトからも入手できます。)

※下線部分は、中級講座で説明

Ⅰ-1:羊蹄山
(1)「羊蹄山」山名の起源(★教本P14)
  1)「羊蹄山」と「後方羊蹄山」
    ・戦前までは「後方羊蹄山」と表記し、「しりべしやま」と読ませた(戦後の流れは後述)
     ~現在もこの傾向は見られる(「日本百名山」S39の深田久弥など)~由来へのこだわり
      背景=地名の起源(アイヌ語)とその表記(漢字)のあり方に関するこだわり→後志
    ・「後方羊蹄(しりべ・し)」読み方の不思議
  2)「後方羊蹄」の謎と「比羅夫伝説」
    ・最初の出典=『日本書紀』巻第26/斉明5(659)年
     阿倍比羅夫北征し、二人の「蝦夷」の進言により“後方羊蹄”に政所(郡庁)
     “後方羊蹄”の所在地は、東北、北海道など諸説あって不明
     比羅夫伝説にちなんだ道内説は3箇所(喜茂別、倶知安、余市)
     比羅夫伝説に基づき所在地解明に向けた遺跡の発掘調査 →★教本P149  
     比羅夫伝説に基づいた神社の建立→比羅夫神社、後方羊蹄神社T2←河合篤叙
   ~伊達藩士田村顕充らの関心と調査、留産・比羅岡の尻別原野      
     発掘出土品(石器、小刀など)は、羊蹄山小学校に保存        
     比羅夫神社由来(松浦武四郎、東久世通禧、副島種臣)T2、S6     
     河合篤叙、田村顕充、行天慶太郎、栄花喜久男など          

  3)「後方(しりべ)」+「羊蹄(し)」
    ・薬草「羊蹄」の漢名(ぎしぎし)→和名「し」 ※「万葉集」にも ※牧野富太郎
    ※どんな薬草か→タデ科の植物で、根の絞り汁が皮膚病に効く薬草(国内に広く分布)

(2)「羊蹄山」山名の変遷(★教本P15)
  1)羊蹄山と尻別岳(★教本P76)の関係
    ・「尻別(しりべつ)川」のそばにある高地を「後方羊蹄(しりべし)」と捉え、後方羊蹄山と
     同一視することに大きな役割を果たした新井白石「蝦夷志」(1720)←旅行者の情報?
    ・アイヌ語「シリ・ベツ(ペッ)」と日本語(?)「しりへ・し(後方羊蹄)」の混同?   
    ・「シリペッ」=至高川(山ハ小ナレド其ノ水源ハ高処ヨリ来ル故ニ「シリペッ」ト云フ) 
     永田方正著「北海道蝦夷語地名解」                         
    ・富士山や比羅夫伝説への関心を心情的背景とした新井白石の意図は?          
    ・両山の混同はその頃の古地図にも散見~1678年「大日本図鑑」に「尻別岳大山」出現、  
     しかし、多くの例は「尻別」の字が多い  (『羊蹄山登山史』高澤光雄著)      
    ※北海道百名山に含まれるこのエリアの山=目国内岳/チセヌプリ/羊蹄山/昆布岳/   
      尻別岳/ニセコアンヌプリ/イワオヌプリ                      
     ほかにも個性的ないわれのある山が多い~それぞれの個性(★教本P74)        
  2)アイヌ語による名称
    ・羊蹄山=マチネシリ(女である山)、マッカリヌプリ
    ・尻別岳=ピンネシリ(男である山)
     ~男女に喩えるアイヌ文化の例(山は生き物という発想、雄阿寒岳・雌阿寒岳など類例)
     ~双子の山(喜茂別町御園~双葉地区方面からの眺め)
  3)「後方羊蹄山(蝦夷富士)」から「羊蹄山(蝦夷富士)」へ
    ・明治初期は、「後方羊蹄山(しりべしやま)」が正式な表記
     ※経緯と背景=ロシアの南下政策に抗するため士気高揚が必要で、そのための物語に活用 
      =国家伸張的観点からの活用意図か?/『伝説としての後方羊蹄』高山亮二著)    
    ・明治20年になって、「マッカリヌプリ」も並存する形で登場(測量関係の開拓史文書)
      →全道の20万分の1地図完成~全国でも早い地形測量(アメリカの測量技術導入)   
       「後方羊蹄山」と「マッカリヌプリ」との間で学術(?)論争           
       武四郎の地図を検証する必要性を感じなくなった(→山岳関係者の間で「紀行」が定着)
    ・明治37年(下記)には、3つの名称が並存する状況に
    ・昭和22年倶知安町から地名変更の要望(一般住民にわかりやすい名称に、と言う理由で)
     →昭和28年調書により標準地名表が「羊蹄山」に
     →昭和44年の地形図で「羊蹄山(蝦夷富士)」に書き換え

(3)「蝦夷富士登山会」が推し進めた山岳観光(★教本P18)
  1)M37年の出来事
    ・小樽から倶知安まで北海道鉄道が開通(函館まで) ★教本P155
     ※北海道鉄道は当初民営(北垣国道が貴族院議員時代に社長)、明治40年に国有鉄道に  
      ←背景:炭鉱と主要港湾を結ぶ鉄道が必要となった。軍事輸送も。曽我に真狩駅誘致  
      →波及:京極線(T8年)、脇方鉱山、三井鉱山→国有鉄道へ寄付  ★教本P121,155 
          沼田流人「血の呻き」[地獄]「監獄部屋」~京極線の敷設工事  ★教本P125    
    ・駅名改称~「大曲」の地名を「比羅夫」に変えて駅名へ(地元住民の合意は?)★教本P156
    ・「蝦夷富士登山会」(初代会長河合篤叙)発足と倶知安ルート登山口開削~観光振興目的
     ~当時の既存の登山ルート=真狩ルート、京極ルート
     ~強力(ごうりき=ポーター、観光ガイド、蝦夷富士登山案内者)
   ※仰ぎ見る山(羊蹄山)への登山観光が、この羊蹄山麓地域の観光の曙

(4)羊蹄山は二重構造の火山(★教本P16)・・・図版参照
  1)「古羊蹄山」と「本体火山」の二重構造
    ・山頂は5つの町村、登山ルートは4本、ピークは3つ
    ・三期に及ぶ噴火(藤井義雄教授の説、2万6千年前から6千年前にかけて)
      →曲点、3つの噴火口(父釜、母釜、子釜)、寄生火山(半月湖など)
    ・古羊蹄の形成はプレートテクトニクス?(比羅岡から植物性プランクトン化石、珪藻土発見)
    ・7つの山容・山岳景観の多様性は噴火の歴史に起因する
    ・温泉や湧水の分布と湧出量、地質や土壌の違いに起因する農地や土地利用の多様性
      ~火山灰黒ぼく土、褐色森林土、珪藻土(比羅岡)
    ・羊蹄山の標高は時代によって変動した(?)                     
      ~1,857m(M29/北海道庁:マッカリヌプリ気象観測記)→1,943m(M42)     
      →1,893m真狩岳(T9/地図)→1,898m喜茂別ピーク(H2/国土地理院の標高調査)=確定
  2)独立峰における生態系の垂直分布
    ・頂上付近に高山帯~ダイセツオサムシ(=氷河期の生き残りの昆虫)ほか5種の高山蛾
    ※氷河期以降(5,6千年前)の気温の変化による分布(★教P36)                 
    ・自然度10(近くの鏡沼周辺も/環境庁調査)
    ・90以上の高山植物を含む中腹一帯は、1921(T10)年に国の天然記念物に指定
    ・旧比羅夫小学校(倶知安町)の「小鳥の学校」で36科163種の野鳥を確認        
    ・生物生息環境の垂直分布が顕著(★教本P33-34) cf.大雪山              
    ・羊蹄山には存在しニセコ山系には存在しない植物約30種、その逆も40種余       

(5)レルヒ中佐のスキー登山(★教本P19)
  1)オーストリア軍人テオドール・フォン・レルヒ中佐(レルヒ記念公園、旭ヶ丘展望台)
    ・M44年、富士山にスキー登山敢行するが天候不順で断念
    ・M45年、羊蹄山にスキー登山(小樽新聞社の同行取材)・・・一本杖スキー
     →装備不十分、悪天候により、頂上に到達したのか不確定(諸説有)頂上はどれ?
     →スキー登山のスタート地点&下山後歓迎会開催地=現レルヒ記念公園附近   
    ・レルヒ→第7師団若手将校→北大(農科大学)学生スキー部→青山温泉合宿→スキーの普及
    ・蝦夷富士登山会、小樽新聞社などの事業協力
    ・羊蹄山麓は道内屈指の豪雪地帯~倶知安町(2位)、ニセコ町(3位)
    ※北海道スキー登山黄金時代のさきがけ、スキー観光のきっかけは羊蹄山から(レルヒの績)

Ⅰ-2:ニセコ山系
(6)「ニセコ」の名称にまつわる歴史の謎(★教本P20-21)
  1)ニセコアンヌプリは無名の山だった
    ・「ニセコ」はニセコ山系の主峰「ニセコアンヌプリ」の略称
     ~「ニセコアンヌプリ」の語源=「ニセコアンペツ」(絶壁に向かっている川:知里真志保)
      モイワ山のことを指していた?(武井静夫)
    ・硫黄山と総称された山々の一つ~イワオヌプリ、ニセコアンヌプリ、チセヌプリ
    ・幕末から硫黄採掘現場~1804年に最古の記録、安政年間の記録、M6年にライマンが調査、
     M12永年社による借地経営以降、M19三井物産など転々と経営委譲し、S12閉山
    ※ライマンのこと:アメリカ人の鉱山技師、明治6年から道内の鉱物探査、日本最初の地質図
    ※永年社のこと:伊達亘理藩の伊達邦成と田村顕充による相互扶助、生産販売の組合(M9-M17)
    ※ニセコ連峰(イワオヌプリ火山群)の垂直分布の乱れ現象は、硫黄の影響(★教P21,33-35)
  2)“無名”だったニセコアンヌプリが歴史の表舞台に
    ・M29年 地図に名称登場
    ・M30年 山田温泉開業~ニセコ山系の新たな産業起こしの嚆矢
    ・M37年 青山温泉開業
    ・M37年 鉄道開通~登山と温泉による新たな経済開発へ
    ・硫黄採掘から温泉とスキーへの転換で、「ニセコアンヌプリ」が表舞台に登場

(7)温泉とスキーによる「ニセコ」ブランド(★教本P22)
  1)温泉の開発とスキーの結びつき
    ・M30年 山田温泉開業~後代にスキー場ゲレンデと融合し、ニセコ観光のモデル的存在に
    ・M37年 青山温泉開業→北大スキー部の合宿、(小樽高商スキー部は宮川温泉(鯉川温泉))
    ※青山温泉、宮川温泉とも、昆布温泉郷(旧ニセコアンベツ温泉)7温泉(★教本P38)
    ・S 3年 スイスのサンモリッツ開催の第2回冬季オリンピックに日本選手初参加
         同じ頃、秩父宮さまが青山温泉不老閣に宿泊してスキー登山、遭難騒動となった
    ※「極東のサンモリッツ」として「ニセコ」がブランド化←小樽新聞の地域情報戦略
       →1964(昭和39)年:倶知安町とサンモリッツ市が姉妹都市に
    ※世界的なスキーの権威シュナイダーにより、「東洋のサンモリッツ」と賞賛(昭和10年代)

Ⅰ-3:湧水
(8)羊蹄山麓名水のメカニズム(★教本P24-25)・・・図版参照
  1)羊蹄山に名水が多いわけ
    ・標高250m前後の溶岩(安山岩)と粘土層の境目付近で湧水
      ~山麓全体(周囲)で17箇所(2,000トン/日以上の湧水)、全体で30万トン/日
    ・羊蹄山の二重構造による湧水量の不均衡
      ~南東半分の6箇所の湧水で70%以上
    ・湧水量の違いだけでなく水質も違う
      ~南東部:大量の地下水→速い流下速度→主要成分の濃度低い河川水型
      ~北西部:少量の地下水→遅い流下速度→主要成分の濃度高い地下水型
    ・水が美味しい理由
      ~地下水の地中ろ過+ミネラル成分の溶け込み
       ミネラル成分の条件=塩素イオン、過マンガン酸カリウム、硬度=厚生省による基準値
       (水中のカルシウム+マグネシウム)、蒸発残留物、PH値            
      ~水温6.5度で1年中ほぼ一定
    ・水源としている町村=京極町、真狩村、倶知安町、ニセコ町、喜茂別町
    ・京極町の羊蹄山吹き出し湧水=8万トン/日、日本の名水百選に(環境庁、1985)
    ・京極町「名水きょうごく」「コーヒー」「氷」、真狩村「麗水」「漬物」等の商品化(★教本P119)
    ※羊蹄山の地質形成史が、湧水の分布と観光・水産業の背景

Ⅰ-4:尻別川
(9)松浦武四郎による尻別川探索(★教本P26-28)
  1)函館奉行所蝦夷地御用雇としての蝦夷地踏査の記録と想い
    ・安政3-5年の踏査→「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」
     →幕府は公開禁止→安政6年「後方羊蹄日誌(しりべしにっし)」刊行
    ・羊蹄山登山に関する記述(「後方羊蹄日誌」)はフィクション?             
     ~幕府の北方政策における情報統制(武四郎日誌の発刊禁止)と民衆への情報伝達    
      他にも、最上徳内のフィクションの例など(当時の学問における手法の範囲?)    
    ・安政3年函館奉行所に意見書(開拓構想)                      
     =羊蹄山を蝦夷地の中央に/5つの道路開削/後方羊蹄神社/中央政庁など       
    ・「北加伊道」にこめられた武四郎の想い
  2)安政4年(丁巳)の2度にわたる尻別川探索
    ・春は河口磯谷から上流に向けて→途中で諦める(目名のあたり)
     その直後、国富から倶知安地点(ソースケ川/高砂)で尻別川に入るが、これも途中で断念
    ・夏は虻田から喜茂別の留産に入り上流鈴川地区(ヘタヌ、オロウェンシリベツ川分岐)まで、
     その後は磯谷まで
     →ウスアイヌ、アブタアイヌのサケ漁の道(相川・留産)/イソヤアイヌとイオル分割 
    ・当時の尻別川における漁業権の争い(和人によるサケ密漁へのチャランケ)     
    ・中流域の激流ポイント(ブイラ)により行き来が妨げられた尻別川         
     ~繫がっていない尻別川(←ブイラ)?                     
     ~シリベツ川流域サケ漁の漁区~ホロイチャン(八幡)の難所が境界        
     ~ソウスケ川周辺はサケの漁区だがブイラで孤立し、ニセコ連山の存在も一般化せず 
  3)安政5年(戊午)の尻別川探索
    ・再び虻田から喜茂別、そして喜茂別川沿い中山峠を経て石狩へ
      →本願寺道路のもととなる原ルート
       武四郎の探検の目的の多くは、内陸の道路開削のルートを現地調査することだった  
       (明治政府、開拓史の政策として)                       
    ※尻別川流域内外の交通・物流ネットワーク形成に結びついた松浦武四郎の探索      
  4)本願寺道路の源となった松浦武四郎の戊午ルート(★教本P153)
    ・東本願寺の布教活動と開拓使の道路開削双方の思惑による共同事業
    ・M4年有珠新道(本願寺道路)=函館と札幌を結ぶルート開発の一部、武四郎ルートと   
     函館奉行ルート(千歳新道)の2案のうち、前者を採用                
    ・アイヌ、和人入植者、門徒により、15ヶ月で開削                   
    ・その後、国道230号(旧道、新道)の基盤となったが、一部ルートが異なっている    
    ・駅逓所、渡船場が各地に(★教本P154)

(10)尻別川流域の多様な生活圏と川利用のルールづくり(★教本P31-32)
  1)流域の上流から河口までの身上書
    ・流路延長126km、流域面積1,640km2、フレ岳(1,046m)が源流
    ・流域自治体は9自治体(伊達市、喜茂別町、京極町、倶知安町、ニセコ町、蘭越町、真狩村、
     留寿都村、豊浦町)、羊蹄山麓7町村で人口37,447人(H17国調)
    ・主要支流:喜茂別川、ペーペナイ川、クトサン川、真狩川、目名川など
    ・流域における主要産業は農業(米作地帯、羊蹄山南山麓の畑作地帯、北山麓の畑作地帯) 
     で、主要作物はコメ、ジャガイモ、ユリ根、アスパラガス、その他(★教本P56)
    ・河川利用施設:水力発電所6箇所(北海道電力、新王子製紙)に魚道(★教本P118)
     ~王子製紙尻別第1発電所(ニセコ)は畔柳二美の「姉妹」の舞台(★教本P126)
     ~純揚水式京極発電所の工事が進行中(★教本P118)
    ・内水面漁業(ヤツメウナギ、アユ、ヤマベなど)(★教本P118)
    ・ラフティング、カヌーなどのウオータースポーツのメッカ(★教本P54)
2)川利用のルールづくり(★教本P32)
    ・清流日本一(国土交通省)に8回(2008年も)~BODによる指標
    ・多様な河川の利用形態や価値観、利害の間に対立
     ~水力発電、農業用水、流雪溝用水、内水面漁業、アクティビティ、釣り、環境保全など
    ・相互の議論の中から川利用のルールづくりがNPO主導でおこなわれた
      ~「しりべつ川の約束」(2000)、「みんなでつくろう川のルール」(2003)
    ・ルールづくりの実効性を担保するために、流域7町村が広域で「尻別川統一条例」を制定
      →「尻別川統一条例」(2006)
    ※流域自治、流域連携のモデル→川の清掃活動、流域の植樹活動など広域の官民協働    
      ~様々な住民活動、NPOなどによる協働:                      

Ⅰ-6:温泉盛衰
(11)主な温泉郷とその盛衰(★教本P38-45、84-)
  1)ニセコ湯元温泉郷(明治18年)蘭越町
    ・間欠泉の発見、婆温泉→馬場温泉、チセヌプリ硫黄採掘の影響、廃業、国民宿舎雪秩父
  2)山田温泉/倶知安町(明治27年)~倶知安最初の入植者のひとり山田邦吉が発見、中腹に
  3)成田温泉(現薬師温泉(明治29年))蘭越町 ~成田伝吉が発見、鉄道開通後も交通は不便                               
  4)五色温泉
    ・明治32年に硫黄精錬所が付近に設置
    ・古くは、稲村温泉(五色温泉稲村旅館)
     ~稲村道三郎の生涯(「大望」鶴田知也著):上目名(比羅岡)で牧場、道路、福祉施設の夢
  5)昆布温泉郷(ニセコアンベツ温泉)
    ・明治37年に青山温泉開業(その後廃業)、不老閣、北大スキー部、佐伯はる顕彰碑、宮様
      ~成田が発見し、青山徳治が買い取り開業、その後も経営者は次々に代わった
    ・青山、宮川温泉(現鯉川温泉)、紅葉谷、成田、黒澤、湯本、ニセコの7温泉が昆布温泉郷
  6)新見温泉郷
    ・明治45年、新見直太郎が開業

Ⅰ-7:スキー隆盛
(12)ニセコ山系の主なスキー場(★教本P48-52、81)
  1)ニセコワイス:ワイスホルン
  2)ニセコマウンテンリゾートグラン・ヒラフ:ニセコアンヌプリ
  3)ニセコ東山スキー場:ニセコアンヌプリ
  4)ニセコアンヌプリスキー場:ニセコアンヌプリ
  5)ニセコモイワスキー場:モイワ山
  6)ニセコチセヌプリスキー場:チセヌプリ
  7)ルスツリゾート:橇負山
Ⅰ-9:農と食
(13)ジャガイモの多様化とその背景(★教本P58-60、111-)
  1)「男爵」の普及と「紅丸」の誕生  
    ・明治初期、開拓史がアメリカから導入した多様な品種 
    ・大正末期に、男爵薯、メークイン、金時薯 
    ・原産地アメリカの男爵薯が山麓に普及、メークインと並び北海道の二大品種に
    ・昭和13年に留寿都村で「紅丸」誕生、村の中心品種に(★教本P58)                  
     ~北海道農事試験場圃場で人工交配により誕生、留寿都村の農家による増殖
     ~デンプン質の割合が高い、デンプン工場の普及と主力品種化
  2)シストセンチュウとの戦いと抵抗性品種の開発(★教本P59)
    ・昭和47年、日本で始めてジャガイモシストセンチュウが羊蹄山麓で発生
      ※シストセンチュウは、南米ペルーで発生しヨーロッパに伝わり世界中に蔓延した
     ジャガイモの根に寄生する害虫/ゴールデン・ネマトーダ
       昭和35年頃ペルーより輸入されたグアノ(海鳥糞)肥料に混入し伝播
    ・農薬防除よりも、むしろ適正な輪作体系確立と抵抗性品種の栽培、営農機械の洗浄、土壌
     および植物検査の徹底が不可欠で農家の自衛策が基本
      →①輪作体系の徹底(3~4輪作への移行、中には5輪作の農家も)
       ②抵抗性品種の開発により、ツニカ、キタアカリなどが普及(留寿都村農家の挑戦)
    ・倶知安、京極は「男爵薯」、留寿都は「キタアカリ」、真狩・ニセコは多品種(★教本P60-61)
    ※多様な品種の普及の陰に、病害虫などとの戦いや農地特性などの背景がある

(14)農作物の地域ブランド開発(★教本P58-60、111-)                    
1)例:ホワイトアスパラガス(喜茂別町)                        
    ・T14年 アスパラの苗100株を岩内から導入し喜茂別村内で試験栽培           
    ・S 3年 岩内の下田喜久三博士と喜茂別村長が村内栽培に向けて農家に訴える       
    ・S 3年 京極-喜茂別間に私鉄胆振線が開通、新鮮なうちの輸送が可能になった      
    ・日本アスパラガスKK(岩内)、朝日アスパラガスKK(函館)、極東缶詰KK(小樽)と対立  
    ・S14年 農民の手による喜茂別産業組合缶詰工場(現クレードル興農S32の前身)設立   
    ・戦時中は、輸出低迷、労働力不足、そして農産物の強制作付転換により栽培禁止    
    ・S23年 喜茂別市街地大火で工場全焼→羊蹄山麓6農協の援助で再興           
    ・ホワイトアスパラは缶詰から生食へと多様化、生産と流通および消費の構造が大きく変化 
    ・グリーンアスパラの台頭、市場拡大(S30年代後半から)                
    ・アスパラガス「発祥の地」岩内、「揺籃の地」喜茂別、「試験成功の地」倶知安、そして夕張

Ⅰ-10:国祭リゾート化
(15)ひらふ地区の国際リゾート開発と景観問題(★教本P64-67)                
  1)オーストラリア人スキーヤーの急増傾向                         
    ・ひらふ地区:1997年から2006年で、3,300人から91,500人(延べ人数)に急増     
    ・平均7~8泊以上が大きな特徴(道内各スキー場にも分散し、ヒラフの宿泊数は減少傾向)
    ・尻別川の夏のラフティング事業に、オーストラリア人事業化が進出(1995年~)     
      →冬の雪質のすばらしさを本国(オーストラリア)に口コミ              
    ・ひらふ地区国際化の5つの要因(JETRO)                      
     ① 自然資源のすばらしさ、特に“最高のパウダースノー”               
     ② 自然資源を楽しむアクティビティで新しいビジネスモデル            
     ③ オーストラリア人のリゾート型ライフスタイル                  
     ④ アメリカの9.11テロ以降のスキー・ディスティネーション切り替え         
     ⑤ オーストラリア国内のエネルギー産業の活況                   
  2)ひらふ地区、およびニセコ地域のリゾート開発と景観問題                
    ・ひらふ地域では民間主導で開発が進められ、土地利用に関して暗黙のルール       
    ・オーストラリア等外国資本によるデベロッパーによるコンドミニアム建設急増      
    ・土地利用問題や景観問題の発生→行政にも地域にも大きな危機感が生じた        
    ・ひらふ地域住民、観光事業者、開発業者、倶知安町役場による円卓会議開催       
      →利害と立場を調整し、規制に関わる基準を定めた「景観要綱」「景観協定」     
    ※地域と行政そして関連事業者の協働によるリゾートづくりの経緯と課題         
    ※今後は、規制をさらに強化するための仕組みづくりに=準都市計画区域、景観計画    

Ⅰ-11:ホスピタリティ
(16)観光ガイドとしてのもてなしの心と技(★教本P68-69)
  1)プログラムやストーリーを自ら作り、相手に合わせて変化させて伝える         
  2)その場限りの情報伝達だけでなく、相手の自己実現のためのアドバイスも         
  3)目の前の姿の背景である人の営みや自然と町の歴史についても関心を引き出す       
  4)地域が好きだからというだけではない、「何のためにガイドするのか」を自問        
  5)相手と一緒に好きな地域をガイドできることへの感謝の心                
  6)社会的規範であるマナーやプライバシー守秘など
  7)言語コミュニケーション以上に非言語コミュニケーションを重視
  8)安全や環境保全に関する強いリーダーシップの発揮と人間関係の調整力           
  9)節度ある親密性で信頼を受ける接遇を
  ※相手の自己実現を支えることで自分の喜びを得ることが基本                

(17)自然や文化を尊重する(★教本P70-72)
  1)自然も文化も変化し続けるものであることを知る 
  2)自然や文化を科学的に理解するだけでなく、感覚的にアプローチする感受性も       
  3)人為的な影響は少なくし、ミスユース(誤利用)やオーバーユース(過剰利用)を防ぐ   
  4)トイレ問題                                     
  5)リスクマネジメント・・・「ハインリッヒの法則」                    
  6)ニセコローカルルール                                
  7)ごみの持ち帰りなど、ルールとエチケット
  ※人間社会は自然のことをまだ良くわかっていないという自覚=「エコシステムマネジメント」 


【参考資料:1】昨年度の試験問題(初級)から(一部抜粋)

2:「羊蹄山」山名の変遷                                   
  「後方羊蹄山」と( A )は、ともに尻別川流域に並ぶ山ですが、和人の記録の中では、この両者はしばしば取り違えられたりしています。“尻別川の地こそが「後方羊蹄」である”と記したのは「蝦夷志」ですが、「後方羊蹄」と「尻別」の読みが近いこともあって、その後さまざまな混乱が続きます。しかしアイヌの人たちは、前者をマチネシリ(女である山)、後者をピンネシリ(男である山)と区別して呼んでいました。また、前者は、別名( B )とも言われていました。( C )年代から北海道への入植者が急増するに従い、「後方羊蹄山」の読み方が難しいなどの理由から、その山容にちなんで「蝦夷富士」と称されることが増え、地元自治体からの要望もあって、昭和40年代の地形図からは、( D )と記されるようになったのです。
【問5】Aは、何と言う山ですか。ひとつ選んでください。

    1)ニセコアンヌプリ  2)昆布岳  3)イワオヌプリ  4)尻別岳
【問6】Bは、何と言う山名ですか。明治20年代の測量調査記録にも使われています。
    1)ワイスホルン  2)マッカリヌプリ  3)チセヌプリ  4)ニトヌプリ
【問7】Cは、何年代でしょう。北海道国有未開地処分法の公布がきっかけとなりました。
    1)明治10年代  2)明治30年代  3)大正10年代  4)昭和10年代
【問8】Dは、どんな表記でしょうか。ひとつ選んでください。
    1)羊蹄山(蝦夷富士)  2)後方羊蹄山(蝦夷富士)  3)蝦夷富士  4)後方羊蹄山

6:「ニセコ」の名称にまつわる歴史の謎                            
  全国的に有名になった「ニセコ」はニセコアンヌプリの略称ですが、ニセコアンヌプリは山容のイメージとは異なる( A )という意味を持っています。この地名も不思議ですが、明治20年代までの地図には、隣の山( B )は載っていてもニセコ山系の主峰ニセコアンヌプリは載っていないのです。この謎は、「ニセコ」がかつてどのような地域であったのかを物語っています。つまり、( B )やニセコアンヌプリなどは、いずれも幕末から硫黄の採掘現場でしたので、総称して「硫黄山」と呼称され、最も標高が高く景観としても目立ったはずのニセコアンヌプリには、明治20年代まで「硫黄山」以外の固有の名称が付かなかったのです。硫黄の採掘については明治政府も企業も大きな関心を寄せ、( C )も調査を行っています。経営体が交代しながら硫黄の採掘は( D )まで続けられ、地域の歴史に大きな影響を与えました。
【問23】Aにあてはまる地名の意味を、ひとつ選んでください。
    1)硫黄の採れる山  2)家の形をした山  3) 絶壁にある山 4) ウサギが二匹飛び出た山
【問24】Bにあてはまる山名を、ひとつ選んでください。
    1)イワオヌプリ  2)ニトヌプリ  3)ワイスホルン   4) チセヌプリ
【問25】Cにあてはまる人物名を、ひとつ選んでください。
    1)ケプロン  2)クラーク  3)松浦武四郎   4) ライマン
【問26】Dにあてはまる時期を、ひとつ選んでください。
    1)明治後期  2)大正後期  3) 昭和初期  4) 昭和後期

事務局 日時: 2008年11月08日 07:46