羊蹄山と地域社会の関わり

5つの行政区分と4つの登山ルート

コニーデ型の羊蹄山は、頂上大火口の1点で5つの行政区が接しています。北から時計回りに倶知安町、京極町、喜茂別町、真狩村、そしてニセコ町です。登山コースは、倶知安コース、京極コース、喜茂別コース、真狩コースの4ルートあり、これらの登山ルート上に、京極ピーク、喜茂別ピーク、真狩ピークの3つがあります。最高標高点は喜茂別ピークの1898mですが、この標高は平成2年にようやく確定したものです。

登山ルートの開発から観光誘致が始まった

登山ルートはそれぞれが個性的な特徴を有していますが、現在最も利用されている倶知安ルートが開削されたのは、1904(明治37)年です。当時、すでに登山コースは京極コースと真狩コースの二つがあり、多くの登山愛好家をひきつけていました。この年は小樽から倶知安まで鉄道が開通した年で、交通網の整備に合わせるかのように蝦夷富士登山会が結成され、登山会の働きかけにより民間の有志で倶知安コースを切り開いたのです(『羊蹄山百話』武井静夫)。合わせて鉄道の大曲駅を比羅夫駅と改称し、後方羊蹄史跡を宣伝して登山客を誘致する狙いもありました。観光誘致のさきがけと言ってもよいでしょう。

江戸期に遡りますと、松浦武四郎がこの地の探検を記した『後方羊蹄日誌』の中に羊蹄山に登ったという記述がありますが、これは事実ではないようです(『羊蹄山登山史』高澤光雄)。また、最上徳内も登ったことになっていますし、他にも登山の記録が残されていますので、江戸期から人々を惹きつけてきた一種の観光名所であったことは確かなようです。その系譜は明治期にも引き継がれ、先に触れた蝦夷富士登山会へと連なり、この地域におけるスキーの歴史に大きな影響を与えた人物の登場を迎えます。

羊蹄山周辺の行政区と登山コース 羊蹄山周辺の行政区と登山コース

レルヒ中佐のスキー登山がもたらしたもの

明治43年から2年間日本国陸軍に派遣されたオーストリアの軍人テオドール・フォン・レルヒは、1911(明治44)年富士山にスキー登山を試みていますが、天候不順で途中で断念しています。そのうっぷんを晴らすがごとく、1912(明治45)年、今度は羊蹄山にスキー登山を決行します。装備の不十分さや悪天候などに阻まれ、ツアーは予想を超える厳しいものとなりましたが、レルヒに同行した第7師団のスキー術受講生や蝦夷富士登山会などと行動をともにした小樽新聞記者の報道により、このスキー登山は大きな脚光を浴びました。レルヒ一行が頂上を極めたかどうか、その真偽のほどはわかっていませんが、レルヒ以降もスキーによる羊蹄山登山の挑戦は幾度となく行われ、後の北海道スキー登山黄金時代を築く人材を輩出したのです。その意味で、レルヒ中佐のスキー登山は、その後ニセコ山系がスキーで隆盛を極め、観光地として大きく飛躍する最初の重要なきっかけを作ったと言えるかも知れません。

羊蹄山が育てた地域資源

羊蹄山と人間社会との関わりを振り返ると、羊蹄山は、地域ごとに異なる気象条件をはじめ、羊蹄山の地層構造にその源を発する豊富な湧水、そして噴火によって形成された裾野一帯の土壌など、地域経済や生活文化のさまざまな領域で大きな影響を与えていることがわかります。羊蹄山の西北部特に倶知安町周辺は、道内屈指の豪雪地帯です。行政域の平均降雪量は道内で2番目(1番目は幌加内町)、3位がニセコ町という統計データも存在します。冬季シベリア大陸から吹き出す乾燥した空気が、日本海で水蒸気の補給を受け、ニセコ山系を超えて羊蹄山に突き当たり凝結して、スキーヤー垂涎すいえんのパウダースノーが連日のように供給されることから、スキー場としての名声も国際的に高まっています。羊蹄山をとりまく自然生態系が母体となって、国内外から高い評価が寄せられる地域資源の宝庫となり、観光地としてもアウトドアスポーツエリアとしても、そして農産物生産地帯としても類稀な複合的集客交流地帯となっているのです。

「強力(ごうりき)」という名の観光ガイド

蝦夷富士登山会は、羊蹄山への登山愛好者を増やすため、様々なサービスを提供します。「強力(ごうりき)」もそのひとつです。強力は案内人のことを指しますが、近所の青年たちが行っていたそうです。肩には「蝦夷富士登山案内者」のたすきをかけ、登山者の荷物を持って、案内をしながら登山をしたと言います。ちょうど私たちが目指す観光ガイドの姿と、どこか似ていると思いませんか?

日時: 2007年10月25日 09:02