「羊蹄山」山名の歴史

「後方羊蹄」の謎

「羊蹄山」の 山名 ほど、古来より複雑な経緯をたどってきた山は珍しいかもしれません。その数奇な物語は、『日本書紀』に端を発します。同書によると、斉明天皇の5年(659)に倍臣(比羅夫)が百八十艘の軍船を率いて北征した際、二人の蝦夷から「後方羊蹄をもって政所とすべし」と進言があり、そこに郡領を置いて帰った、と記されています。同書は、「後方羊蹄」を「しりべし」と読ませています。この“由緒ある”記述に、その後、山名の歴史は大きく左右されて今日に至るのです。「後方」は「しりへ」、「羊蹄」は「し」と読ませていますが、これも奇異なことです。植物学者の牧野富太郎は、「羊蹄」とは「ギシギシ」という草の漢名で、それを日本では単に「シ」と言うのでこのような用字になったと著しています。この用字は、万葉集や源氏物語にもあるそうです。つまり、物語の端緒で意味があったのは、「しりべし」という表音であって、「後方羊蹄」という表意ではなかったのです。これが、どうやらその後の複雑な物語の、因果の始まりとなっているようです。

尻別川の山

ところで、「しりべし」は、元来「尻別川」の名であったのではないか、と言われています。尻別川の地を『日本書紀』の「後方羊蹄」と考えたのは、新井白石の「蝦夷志」からだといいます。「尻別川」は、「山・川」を意味するアイヌ語「シリ・ベツ」による名称ですが、話はここからさらにややこしくなります。尻別川のそばにある山の中でも、富士山に似た秀麗な山容の「羊蹄山」は、当地を知った人にとってはきわめて印象深い山だったに違いありません。それで、尻別川のそばの山ということで、「羊蹄山」が「シリベツ山」と呼ばれ、それが「シリベシ山」と混同され、「後方羊蹄山」と書かれるようになりました。ところが、当地のアイヌの人たちがシリベツ山と呼んでいた山は、「羊蹄山」ではなくて、その隣にある現在の「尻別岳」だったのですから、話はますますややこしくなります。松浦武四郎は、このような混乱を承知の上で、「羊蹄山」は当島第一の霊山なので、この山こそ「後方羊蹄山」としたい、という気持ちを持ったようです。(『丁巳報志利辺津日誌』)このような心情は、松浦武四郎のはるか以前の学者たちによって累々と継承されてきた説でもあったのです。

アイヌ語の呼び名

「羊蹄山」と「尻別岳」について、別の観点から整理しておきましょう。江戸期の古地図を見ると、「羊蹄山」は「尻別岳」と記載されている例が目立ちます。(『羊蹄山登山史』高澤光雄)しかし、アイヌの人たちは、この二つの山を明確に区別して呼んでいました。「羊蹄山」は、「マッカリヌプリ」もしくは「マチネシリ(女である山)」、そして「尻別岳」は「ピンネシリ(男である山)」とされていました。山を「男」と「女」に区別して呼ぶのはアイヌ文化によく見られることですが、この二つの山容を眺めると、“なるほど”と納得するから不思議です。

明治政府の山名

明治政府は当初、『日本書紀』とその後の和人的心情に沿って、正式な名称として「後方羊蹄山」を使っていましたが、これについては、阿倍比羅夫伝説を国家伸張的観点から活用する意図もあってのこと、という指摘もあります。(高山亮二「伝説としての後方羊蹄」)ところが、明治20年代に入ると、道内各地の実測が進み、地理学的観点から「マッカリヌプリ」というアイヌ名が使われるようになります。その結果、公文書の中でも「後方羊蹄山」と「マッカリヌプリ」の間で競うかのように揺れ動きます。

「羊蹄山」の普及

さらに、1905(明治38)年には蝦夷富士登山会が正式に発足し活動を開始しますので、この時期には、「後方羊蹄山(しりべしやま・こうほうようていざん)」「マッカリヌプリ」「蝦夷富士」が併存することになります。しかし、山麓への入植が進み、後方羊蹄山を「シリベシ山」と読むのは難しいこと、きわめてよく似た音の「尻別岳」が傍らにあったことなどから、結局そのまま音で読んで、略して「ヨウテイザン(羊蹄山)」という名称が一般化したのです。ちなみに、後方があるのに前方が無いのはおかしいからと、尻別岳に「前方羊蹄」の名をつけたのは、虻田側から見ると尻別岳が前方にあるという理由からであったのでしょう。羊蹄山麓には、字名に「比羅岡」(喜茂別町)、「比羅夫」(倶知安町)、駅名に「比羅夫」(倶知安町)など、阿倍比羅夫にちなんだ名称も残されています。

「羊蹄山」と「後方羊蹄山」

本章に述べたように、「羊蹄山」の表記については、複雑な経緯と様々な見解が見られます。本書では国土地理院の地形図などで一般的に使用されている「羊蹄山」としましたが、地形図がこのような表記となった背景は、次のようなことであったとされています。“陸地測量部の大正6年測図、同9年発行の五万分之一地形図「留寿都」には後方羊蹄山(蝦夷富士)と記載されていたが、戦後昭和22年の測量時に地元倶知安から難解な後方羊蹄山を羊蹄山と地名変更すべく要望が出された。28年の測量時に調書を提出し、標準地名表は羊蹄山に変更され、昭和44年編集、同年11月発行の地形図から羊蹄山(蝦夷富士)と書き換えられた。”(倶知安双書『羊蹄山登山史』高澤光雄著より)羊蹄山「羊蹄山」山名の歴史※この本では国土地理院の地図などの表記に合わせて「羊蹄山ようていざん」と表記しますが、本章で詳しく述べるように「後方羊蹄山しりべしやま」と表記・表音している例もあります。

松浦武四郎と羊蹄山

松浦武四郎は、1818(文政元)年に伊勢国で生まれ1888(明治21)年東京で没した、幕末期の北方探検家です。幕末期から蝦夷地を6回にわたって踏査し、詳細な観察記録を残しています。それらは、1856~1858(安政3~5)年に『東西蝦夷山川地理取調紀行』として発行されました。その中の「後方羊蹄日誌」は、尻別川の探検について書かれた著書として親しまれてきました。特に、その中に記された後方羊蹄山登山の記録は、登山家によって注目され、その事跡が高く評価されてきました。しかし、松浦家に秘蔵されていた膨大な関係資料の解読が進むにつれ、それらの記録(特に『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』)と「後方羊蹄日誌」との間に様々な矛盾があることが明らかとなり、とりわけ羊蹄山登山はフィクションであることがほぼ明らかとなりました。このことについては、「松浦武四郎・蝦夷地登山の実像」俵浩三著(『国立公園』1986)、『羊蹄山百話』武井静夫著(1992)などに詳しく述べられています。しかし、松浦武四郎が後方羊蹄の登山に並々ならぬ情熱を持っていたことも様々な資料から明らかとなっています。かれは、後方羊蹄山の麓に北海道における中心都市を作ることを夢見ていたのです。その夢は、まさに日本書紀が記した阿倍比羅夫の功績をたどったものでもあったといえるでしょう。

日時: 2007年10月25日 09:00