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102_ニセコ山系
ニセコ山系開発の歴史
「ニセコ」の名称の起源にまつわる謎
「ニセコ」はニセコ山系全体を表す名称として広く通用していますが、ニセコアンヌプリの略称が語源です。ニセコアンヌプリは、ニセコ山系(連峰)を構成する山々のひとつです。では、ニセコアンヌプリとはどのような山なのでしょうか。
ニセコ山系は、ニセコアンヌプリ(1308.5m)を主峰に、イワオヌプリ(1116m)、ワイスホル(1045.8m)、チセヌプリ(1134.5m)、岩内岳(1085.7m)、目国内岳(1202.6m)、雷電山(1211.7m)他の山々で構成されており、行政区でいうと倶知安町、ニセコ町、蘭越町、共和町、岩内町まで含んでいます。それらのうち、ニセコアンヌプリ、ワイスホルン、チセヌプリはあたかもカルデラのように連なって、それらの中心に位置するイワオヌプリを囲んでいます。
ところで、ニセコ山系に関する古くからの文献や地図には、ニセコアンヌプリの名称は見当たりません。明治24年の北海道庁地理課20万分の1地図がニセコアンヌプリの名称を掲載した頃から、その名が普及し始めたようです。それでもその後しばらくの間、ニセコアンヌプリ、イワオヌプリ、チセヌプリを総称して、古くは「岩内岳」そしていつしか「硫黄山」と呼んでいたのです。つまりニセコアンヌプリは、はじめ固有の価値をもたぬワキ役でしかなかったのです。それは、どのような背景からだったのでしょうか。その謎を解く前に、ニセコ山系の植生に目を移してみましょう。
ニセコ山系の植生
ニセコ山系の山麓や中腹には、湖沼や高層湿原がところどころにあります。主な湖沼は、長沼、神仙沼、大沼、鏡沼などで、その周辺には神仙沼湿原や大谷地湿原、鏡沼湿原などの代表的な高層湿原や無名の湿原が多く、いずれも海抜500~700m付近に発達しています。ニセコ山系の山々は、山麓から中腹900mあたりまでは全体にネマガリダケ(チシマザサ)が著しく群生し、樹種はあまり多くありません。特に、イワオヌプリは南方と西方の斜面の土壌が多量の硫黄を含んでいるため、植物はほとんど生育していません。自然植生にも、この山系の特色が色濃く反映しているのです。
ニセコ山系の山々は、いずれも800m付近で高木限界に達していますが、常緑針葉樹のエゾマツやトドマツの天然林を欠いており、不思議な特徴となっています。この原因については、ネマガリダケが密生してマツの幼木が育たないか、山火事があったためではないかと言われています(『倶知安町百年史』)が、後述する硫黄採掘との関連はなかったのでしょうか。
ニセコの歴史は硫黄の採掘から
謎解きのヒントが、見えてきました。ニセコ山系開発の歴史は、硫黄の採掘から始まったのです。イワオヌプリからもニセコアンヌプリからも硫黄が採れたことから、これらの山々を総称して「硫黄山」と呼び、個々の山を言い分ける必要のない時代が続きました。硫黄採掘現場であり経済活動の場であったニセコ山系。そんなイメージが浮かんできます。
ニセコ山系で硫黄が採掘されたもっとも古い記録は、1804(文化元)年に遡ります。その後、安政期から硫黄採掘を示唆する記録が増え始め、文化期、文久期と採掘記録が続きます。明治に入ると、1873(明治6)年にはアメリカの地質学者ライマンが現地調査を行い、有望な硫黄鉱であるとの報告を行います。1876(明治9)年には試掘が行われ、1880(明治13)年永年社が事業を受け継ぎ、さらに1886(明治19)年には鉱山は三井物産会社に譲渡され、一新された経営のもとわが国初めての蒸気精錬法が導入され、社名変更を経て1920(大正9)年、北海道硫黄株式会社が経営を引き継ぎます。やがて産出量が減少したことにより、1937(昭和12)年、ついに閉山されました。今日では硫黄採掘の栄華をしのぶことはできませんが、当時は硫黄鉱搬出用索道(リフト)が倶知安市街と元山を結んでいたなど、地域経済をしっかり支えていたのです。
イワオヌプリが硫黄採掘の地として賑わいはじめた1904(明治37)年、ニセコ山系の麓に沿って鉄道が開通します。羊蹄山へのスキー登山が試みられたこの時期(P19参照)、ニセコ山系では、硫黄採掘だけでなく、温泉開発への関心を高める時代とも重なっていったのです。「ニセコ」は、「硫黄山」イワオヌプリの陰的存在から、いよいよスキーと温泉のメッカ・ニセコアンヌプリとして、歴史の表舞台へと展開していきます。
ニセコアンヌプリ名称の謎
「ニセコアンヌプリ」という山名そのものは、どのような意味を持っていたのでしょうか。そこには、もうひとつの謎が潜んでいます。
ニセコアンヌプリの意味は、これまでわかりにくいもののひとつとされていました。
知里真志保の『アイヌ語入門』(昭和31)では、「ニセコアンペッ」を「絶壁・に向かって・いる・川」としていますので、「ニセコアンヌプリ」は「絶壁・に・ある・山」となるはずですが、今のアンヌプリには絶壁のイメージはありません。山田秀三『北海道の地名』(昭和59)の説もほぼ同じです。
この謎について、『倶知安町百年史・上巻』は、次のような解釈を示しています。“しかし、ニセコアンヌプリをモイワ山に置き換えると、ニセコアンベツは「絶壁・に向かっている・川」であり、上流に向かって右手にそびえている山は「絶壁・に・ある・山」なのである。”つまり、最初ニセコアンヌプリと呼ばれたのは、今のニセコアンヌプリではなくモイワ山だったというのです。
この解釈が正しいかどうか、私たちにはわかりませんが、地域史のロマンとドラマを感じさせるエピソードのひとつといえるでしょう。
東西に伸びるニセコ山系11の山々
ニセコ連峰は、東西に延びる11の連なった山々からなっています。ニセコ山系の山々は、その形状の特徴から西半分と東半分に分けることができます。
ニセコ山系を東半分と西半分に分断するのは、南側では蘭越町のペンケ目国内川と、北側では岩内町の野束川を結ぶ線です。ここにはいくつかの活断層が集中し、特に新見温泉付近ではペンケ目国内川が深い峡谷を形成しています。また、新見温泉の上流に位置する紅葉の滝の周辺では、地層が大きな力を受けてねじ曲がった様子や、活断層によって分断された様子を観察することができます。
興味深いのは、ニセコ山系の11の山々の名称が上に述べた西半分と東半分で大きく異なることです。おおむね西側の山々の名前には日本語名が、東側にはアイヌ語名がついています。例えば西半分の山々には前目国内、目国岳、岩内岳、雷電岳と名がついているのに対し、倶知安側の東半分の山にはアンヌプリ、イワオヌプリ、ニトヌプリ、チセヌプリ、シャクナゲ岳、白樺山とついています。(倶知安町風土館の資料より)
サポート 日時: 2007年10月25日 09:03