温泉とスキーが創った「ニセコ」ブランド

温泉の開発とスキーの結びつき

ニセコ山系温泉開発の幕開けは、クッチャン原野へ最初に入植した一人山田邦吉が1896(明治27)年に発見し1899(明治30)年に開業した山田温泉に始まります。場所は今のグランヒラフスキー場ですが、現在地よりは上の中腹にありました。温泉がスキーと一体の楽しみとなることを先取りした好例といえます。

そして約10年後の1906(明治37)年、鉄道の開通と歩を合わせるかのように青山温泉(昆布温泉の蘭越側にあったが現在はない)が開業します。この温泉において、1919(大正8)年から1951(昭和26)年まで北大スキー部の合宿が続けられたこと、そして1928(昭和3)年に秩父宮さまがニセコアンヌプリとチセヌプリでスキーを行うために宿泊されたことは、ニセコ山系が温泉とスキーのメッカとなるうえで重要な歴史的出来事でした。特に、大正から昭和にかけてのスキー場は、学生たちにより昆布温泉(青山温泉〈現在はない〉・宮川温泉〈現鯉川温泉〉)を拠点に開発された(『新・蘭越町史』)といっても過言ではないのです。また、秩父宮様を迎える青山温泉と周囲の山々の様子を伝えた小樽新聞は、この地を「極東のサンモリッツ」と讃え、後に「東洋のサンモリッツ」の名でニセコが知られていくきっかけをつくったのです。

スキーヤーを招く拠点として

ニセコにスキーが定着しスキー場が隆盛を極める時代を迎えるうえで、北大スキー部のニセコ合宿(青山温泉)は重要な役割を担います。レルヒ中佐の手ほどきを受けた旭川師団の若手将校はスキーの講習会を開きますが、この講習を受けた北大(当時は農科大学)の学生たちはスキー部をつくり、青山温泉で合宿を行います。合宿が行われた時代は、佐伯はるが青山温泉の帳場を任され、学生から「青山のおばさん」と慕われた時期に重なります。温泉とスキーが密接な関係を保って発展してきたことを物語る、象徴的な出来事といってもよいでしょう。

北大スキー部が青山温泉に合宿したのに対し、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)スキー部は、宮川温泉(現鯉川温泉)で合宿を行いました。練習は、北大スキー部が現在のモイワスキー場の下の部分、小樽高商はチセヌプリ左斜面で行いましたので、それぞれ北大スロープ、高商スロープの名で呼ばれ、その練習を見た地元の人たちの間にもスキー熱が高まり、地元でもさまざまなスキー大会が開かれるようになりました。そのような機運の中1928(昭和3)年には、スイスのサンモリッツで開催されたオリンピックに日本ははじめて7名の選手を送り、連日の報道をきっかけに全国でスキーへの関心が高まります。その直後に秩父宮ご一行が青山温泉に宿泊しスキー登山を行ったのですから、冬山ニセコは実にタイムリーにクローズアップされ、一気にそのブランドが発信されることになったと言えるでしょう。

ニセコの夏山開発は道路の利活用から

ニセコがスキーの山としてその名を高めていくにつれ、温泉にも変化が現れます。1929(昭和4)年、新山精錬所跡に井上温泉が開業し、倶知安から岩雄登鉱山にいたる道路に温泉からの道が通じます。翌1930(昭和5)年には稲村温泉が開業しました。いずれも現在の五色温泉です。温泉をつなぐ道路が整備されることによって、温泉の利用は次第に夏山としてのニセコの開発に結びついていきました。それぞれの山への登山が容易になり、五色温泉が夏山の基地としての役割を果たすようになります。夏山登山が普及するとそれぞれの山の識別が必要になり、新しい名前がつけられます。ワイスホルン、ニトヌプリ、シャクナゲ山はこの時期に命名されたものです。しかし、次第に戦時色が強まるにつれ、1943(昭和18)年からはニセコアンヌプリの山頂に飛行機の着氷観測所が設けられ、中腹からの登山が禁止されます。

ニセコが夏山として再び脚光を浴びたのは、1950(昭和25)年に道立公園の指定を受けてからで、以降道路網の整備が進むにつれて温泉間のバス路線も延伸します。バス路線の整備によって、夏山としてのニセコは、高山植物の中を登山と沼めぐりで気軽に楽しめるハイキングコースへと一新しました。さらに1963(昭和38)年、開発による自然破壊の不安を秘めながらも、ニセコ積丹小樽海岸国定公園の指定を受けます。そして近年、ニセコの冬山と夏山は、時代の様相を変えながら海外の人たちを受け入れるなど、さらなる発展を続けているかのように見えます。

ニセコ山系の道路網と温泉、スキー場所在図 ニセコ山系の道路網と温泉、スキー場所在図

学生が命名した山

ニセコ山系の山々が夏山登山の対象となるにつれ、それぞれを識別する上で名称が必要になりました。北海道の山々は、元来アイヌ語に起源を持つ名称が多いのですが、ニセコ山系にあっては学生に命名された山名も生まれました。

北大スキー部が青山温泉で合宿を行い、山スキーが盛んであった大正の中期から昭和のはじめころまだ名前が無かった山々のうち、「名無し」と読んでいたある山で滑っていた部員たちの前に、突然2匹のウサギが飛び出してきたので、二兎(ニト)ヌプリとしゃれ、それが山名になった、というのは有名なエピソードです。(『新蘭越町史』より)

日時: 2007年10月25日 09:04