松浦武四郎の尻別川探索

武四郎の羊蹄山麓開拓構想

1855(安政2)年、箱舘奉行所の蝦夷地御用雇に登用された松浦武四郎は、当時まだまだ未開の地が多かった北海道の地理を詳細に調べるため、1856(安政3)年から1858(安政5)年にかけて踏破を行ない、克明な記録を残しています。後に「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」として幕府に献上されたこれらの調査報告書は、幕府の意向により公開が許されませんでしたが、武四郎は尻別川探索を記した部分を「後方羊蹄日誌(しりべしにっし)」としてまとめあげ、広く蝦夷地の実態を知ってもらうため、1859(安政6)年、普及版として刊行しました。

なぜ、武四郎はそれほどまで「尻別川」にこだわったのでしょうか。その謎は、彼の出自にあるといわれています。彼は自らを安倍比羅夫の末裔であると信じていたため、比羅夫伝説が残る尻別川流域地方への関心は極めて強かったようで、調査前年である1856(安政3)年には、箱舘奉行所に羊蹄山麓地方の開拓の必要性と基礎整備について説いた意見書を提出しています。その構想は、羊蹄山を「蝦夷地の中央」と位置付け、そこに至る5つの経路を切り開き、山麓に神社を設け、将来的には政府を置くなど、まさに比羅夫の見果てぬ夢を追求/span>したものでした。

彼の提言は結局実を結びませんでしたが、間宮林蔵、最上徳内、近藤重蔵といった蝦夷地探検の先達もなし得なかった尻別川水源探索に彼を導いたのは、その一途な想いだったのではないでしょうか。

武四郎『後方羊蹄日誌』の中の尻別川の地図 武四郎『後方羊蹄日誌』の中の尻別川の地図

尻別川源流への旅:安政4年5月5日~14日(旧暦)

1857(安政4)年4月29日に箱舘を出立した武四郎は、噴火湾を北上し、黒松内を通り、5月5日に磯谷(蘭越町)に到達。ここで、尻別川流域調査に必要な舟や案内人を調達しようとしましたが、現地の松前藩役人たちはなぜか「滝があってのぼれない」などと協力を渋っています。その裏には「密漁が明るみに出ては困る」という地元の役人の思惑もからんでいたようで、彼が記した報告書が幕府によって封印された一因は、案外その辺にもあったのかもしれません。

磯谷から、当時すでに知られていた雷電温泉(岩内町)を経て、9日には国富(共和町)に到達。そこから倶知安までは、18キロにおよぶ笹刈り道や、開拓のため焼き払われた区域が点在していたため比較的歩きやすかったようですが、そのことも、当時は岩内の番人には内緒にされていたようです。10日はチツフルウシフシ(倶知安峠の麓)を経てクッシャニ(倶登山川)沿いに下り尻別川を渡って、ソウツケ川との合流地点から500m上流にある小屋で1泊。川幅18mにおよぶこの辺りはアイヌ(セベンケ)の鮭の漁場として知られ、秋には240石(約1500匹)を岩内まで搬送。塩漬けイクラも作られていたといいます。

ソウツケでは、残雪残るマッカリノホリ(羊蹄山)への登山を試みますが、笹藪に阻まれ断念。また、舟によるソウツケ川遡上も試みましたが、途中、激流に阻まれ、これも断念。尻別川を下るも、硫黄川河口付近で立ち往生し、またもや断念し、やむなく往路を戻りました。

上流から流域への旅:安政4年7月29日~8月9日(旧暦)

引き続き石狩・上川・天塩を踏査した後、再び後志に戻った武四郎は、今度は虻田から河口への探索を再開しました。

7月29日に洞爺湖からソリオイ(留寿都)入りした一行は、橇負山麓(ルスツ高原)の狩り小屋に1泊。翌日は、フルホク(喜茂別町字相川)で丸木舟を調達して川を遡りながら調査を開始し、上流のハキイチャンにあるアプタアイヌ「ホロヤンケ」の小屋に宿泊。さらにその翌日はウスアイヌの漁場だったチヒホラ(鈴川手前の駐車場付近)を経て、さらに上流のヘタヌ(喜茂別町鈴川)に到達。上流の様子を聞き取り調査し、ハキイチャンまで引き返しました。

翌日からはいよいよ丸太舟での川下りを決行。フルホクから下流へと向かった辺りから両岸には陽光が届かないほど深く茂った森林が続き、その樹間に時折熊や狼の姿が目立つようになってきました。流れはルウサン(喜茂別町留産)を越えたあたりから急流と化し、夕刻、ようやくパンケナメ(京極町)に到達。ここで1泊。

翌朝からの行程はさらに厳しさを増しました。両岸は切り立った崖。しかもブイラ(激流ポイント)の連続とあっては、旅慣れた武四郎も舟での川下りを断念せざるを得ません。荷物を背負い、空舟にロープを付けて流しながら徒歩で下流へと向かい、ヌプリカンベツ(寒別)、ホロイチャン(八幡付近)を経てソウツケ(高砂)に到達、1泊。

さらにその翌日、彼らを待ち受けていたのはアイヌの人たちガニセケシヨマ(ニセコ)と呼んでいる難所中の難所。川は深く、激しい水音を立て、両岸は鋭い奇岩が立ち並ぶ峡谷でした。川の中にさえ岩が突き出ているため、舟を降ろすのも躊躇するような有様。日暮れまで歩き続け、8番ブイラ(比羅夫付近)の崖の洞穴にキナ(ござ)を掛けて野宿。この日は1日に3里(12キロ)も進むことがかなわなかったようです。

4日も激流に悩まされ、舟を川から引き揚げて笹藪の中を進んだりしながら、18番ブイラ(比羅夫駅下流、樺山付近)で野宿。運悪しく、夜半過ぎから激しい雨に見舞われてずぶ濡れとなり、付近に生えていた蕗の下で雨をしのぎました。

5日は一番の難所とされる26番ブイラ(シベツチャン)を通過、30番ブイラ近くで野営。ここで発見した伐採跡が、10年ほど前にアプタアイヌが木を切り出した場所と知り、河口が近づいていることを確認。足場の悪い道の連続で心身ともに消耗していた武四郎の胸中にやっと安堵の色が差し込んだのでした。6日は40番ブイラ(ニセコ付近)、マッカリベツプト(真狩川河口)を経て、50番ブイラ(富川付近)に野宿。マッカリベツプト辺りからようやく流れが緩やかになリ、ブイラの数も減ってきました。

翌7日には、55番ブイラ付近で硫黄山(イワオアンヌプリ)を確認。59番ブイラ(王子第2発電所手前・黄金付近)まで進み、野宿。8日は60番ブイラから羊蹄山を確認。59番ブイラを経てコンホフト(昆布川河口)に到着。付近で和人が密漁のために使っていた小屋を発見。ここでの密漁のため上流にある礼文華アイヌ等の漁場では鮭が獲れなくなっていることを知った武四郎は、後に密漁の是正を寿都の役人に提言しています。その晩はハイプチ(東蘭越)に野宿。

翌9日には、パンケヲイカラカルウシ、ヤサツタラ(南部川)河口を経て、いよいよ春に調査したシヤマツケウツアに到達。メナプト(目名川河口)で昼食をとった後、河口まで一気に下り、夜7時頃渡し場に到着。尻別川全行程の調査を終えたのでした。

二度にわたる安政4年の尻別川探索の後、箱舘奉行所より虻田から石狩豊平(札幌)に至る道路開削計画(国道230号線)の予備調査を命じられた武四郎は、1858(安政5)年、再び後志地方に足を踏み入れています。その記録は、「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」にまとめられ、北海道幹線道路開削の基礎資料として重要な役割を果たしました。

日時: 2007年10月25日 09:06