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107_スキー隆盛
スキー場の新しいトレンド / ニセコ山系以外のスキー場 / ニセコ山系の主なスキー場 / スキー興隆の歴史 /
スキー興隆の歴史
レルヒ中佐とスキーのはじまり
北海道におけるスキーは、1912(明治45)年2月、オーストリアの武官レルヒ中佐の旭川への赴任に始まりました。レルヒ中佐は、テルドール・フォン・レルヒといい、1896(明治2)年8月31日、プレスブルグに生まれ、スキーをアルペンスキー術の創始者ツダルスキーに学びました。旭川に赴任したレルヒ中佐は、スキー研究会を結成して、若手将校を中心にスキー術の指導をしました。
レルヒ中佐は、1912(明治45)年4月に蝦夷富士(羊蹄山)をスキー登山するために倶知安を訪れ、そのときに小黒の山(旧国道に沿った旭ヶ丘公園予定地隣の丘)でスキー術の公開練習を行っています。練習には東郷支庁長をはじめ多くの村民が見学し、はじめてみる一本杖のスキーに驚きの目をみはったといいます。
翌17日、レルヒ中佐の一行は、スキーによる羊蹄登山にいどみます。このスキー登山は、大変な困難を極めたといいます。4月とはいえ、5合目を過ぎたあたりからは氷の絶壁となり、猛烈な吹雪の中を進みました。5合5尺でスキーを置き、ストックを金剛杖のかわりとしての登山となりました。山頂付近では気温がマイナス32度を示していました。登りに5時間40分、下りに3時間20分を費やし、隊員は凍傷や高山病に苦しみながらの困難な登山でした。このスキー登山行は、当時の小樽新聞にニュースとして掲載されただけでなく、隊員として動向した奥谷記者によって「悪戦苦闘九時間のスキー隊」として8回に渡って連載され、しばらくはこの話が話題を独占したそうです。
北大スキー部と小樽高商スキー部
レルヒ中佐に手ほどきをうけた将校らは、月寒にある歩兵第二十五連隊に戻りスキーの講習会を開きました。この講習会を受けた農科大学の学生たちがスキー部を作り、後に農科大学は北海道帝国大学となり、スキー部は北大スキー部となりました。北大スキー部とニセコとのかかわりは深く、大正期に青山温泉の合宿やニセコアンヌプリ、イワオヌプリなどへの登山を数多く行っています。
北大スキー部が青山温泉に合宿をしたのに対し、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)のスキー部は宮川温泉で合宿をしました。宮川温泉は現在の鯉川温泉で、青山温泉とともに昆布温泉にありました。練習は北大スキー部が現在のモイワスキー場の下、高商スキー部が道道66号線(ニセコパノラマライン)沿い、チセヌプリに向かって左側の斜面で行い、それぞれの斜面は北大スロープ、高商スロープと呼ばれていました。その練習を見ていた地元の人たちが手づくりのスキーをはいて滑ってみるようになりました。
その後、地元倶知安中学(現倶知安高校)にスキー部ができ、各地でスキー大会が開催されるなど、人々にスキー人気が広まっていきました。さらに、1928(昭和3)年にスイスのサンモリッツで開かれた第二回冬季オリンピックに日本からはじめて7名の選手団が参加し、この出来事も人々のスキー熱をさらにあおることとなりました。
秩父宮のスキー行
オリンピックと同じ1928(昭和3)年2月に、スポーツの宮様として親しまれていた秩父宮(昭和天皇の弟)が、北海道視察とスキー練習をかねて、ニセコを訪れました。秩父宮はニセコアンヌプリとチセヌプリにスキー登山を行いましたが、暴風雪に悩まされ登頂は断念しました。この日札幌の午後2時の最大風速が25mだったと伝えられています。この吹雪は様々な混乱を呼びました。地元からは決死隊、消防組員らが救援に出動し、東京では宮様遭難の号外を出した新聞社もあったといいます。このスキー行の記事は連日新聞のトップをにぎわし、写真もふんだんに載ったことから、冬のニセコが大きくクローズアップされ全国にニセコの名を広げることとなりました。
スキー場の様変わり
戦前から戦後にかけて、「東洋のサンモリッツ」と呼ばれてスキーの聖地としての絶賛を博してきたニセコですが、当時は数時間かけて一歩一歩登り、一日がかりで二回も滑走できるかどうかという楽しみ方でした。ところが1957(昭和32)年頃からスキーリフトが登場して、全国のスキー場の様相が様変わりしました。ニセコでも1961(昭和36)年にはじまり、北海道中央バス(株)、ニセコ開発(株)がスキーリフトを設置しスキー場を開発してきました。そして、1970(昭和45)年に開催されたスキー国体のため、スキー場や周辺施設の整備が進められました。
また、1972(昭和47)年には、留寿都村の橇負山を中心に大和観光(株)スキー場を開設するなど、近代的なスキー場開発が各地でさかんになりました。
極東のサンモリッツ
182 8(昭和3)年2月11日から19日までの9日間、スイスのサンモリッツで開かれた第2回冬季オリンピック大会に、日本ははじめて6名の選手団を送りました。入賞にはほど遠い成績でしたが、人々のスキー熱をあおるとともに、サンモリッツの名を脳裏に焼きつけました。
そんななかでの秩父宮のスキー行でした。3月1日の小樽新聞は、半ページをつかって青山付近の写真をのせるとともに、「極東のサンモリッツ」の見出しでお越しを待つ青山温泉とスキー場を紹介しました。のち「極東のサンモリッツ」は「東洋のサンモリッツ」の名で普及し、ニセコのスキー場を形容する言葉になりました。
1964(昭和39)年、倶知安町はサンモリッツ市と姉妹都市の提携を結びました。
サポート 日時: 2007年10月25日 09:12