林業

伐採と共に始まった開墾の歴史とは対照的に、森は今その重要性が叫ばれ、保護されています。豊かな自然環境の元で発展してきた羊蹄山麓の町や村。この恵みを未来につなげるため、森と人との歴史を知り、森林と一緒に生きる方法を考えましょう。

木炭

開墾のために木が切り倒され、伐られた樹木は毎日のように焼かれていた明治期。数年経つと各地で木炭の製造が始まり、喜茂別でも盛んに炭窯が作られるようになりました。その後の大正期には、森林が減少して、木材が不足気味になり、造林と植樹へと流れが変化しました。蘭越町では、用材として木工場を作るほか、家庭で使用する木炭に加工して売り出しました。この木炭は、山中に設けた炭窯で焼いて生産。1924(大正13)年の生産高は803,925貫(=約3,014,719kg)、1925(大正14)年には木炭製造戸数は169までになりましたが、昭和になると、炭の燃料としての需要が減り、原木の需要が増えたこと、森林資源が減少したことなどから衰退。この木炭の生産は1955(昭和30)年まで続きました。

羊蹄山の山火事

林業の発展と共に森林資源が乏しくなってくると同時に、山火事が樹木の減少に拍車をかけた開拓期。開墾の火入れ作業から野火や山火となることが珍しくありませんでした。1900(明治33)年7月25日に羊蹄山林に発生した山火は、8月5日までの2週間に渡って、3合目から4合目の山林1,000町歩余を焼失。1908(明治41)年には、羊蹄山の下方山林に火災が発生(雨乞いの火が原因らしい)。また、1911(明治44)年の山火事は、北海道山林火災史上、稀にみる大火といわれるもので、連日に渡り、火の勢いが激しく、消火の方法がなかったと言われています。

シイタケ

1902(明治35)年に、入植者がナラの倒木にナタの目を入れて放置した所に天然性のシイタケの胞子が付着したことから人工茸栽培のきっかけを作ったことで知られる喜茂別町。その後シイタケ栽培の研究が重ねられ、大正期には道庁が林業奨励事業としてシイタケ栽培をその一つに挙げるまでになりました。

シイタケが、農家の副業になり、家庭の栄養改善にも役立つことから、1956(昭和31)年にシイタケ栽培の五か年計画を立てたのが、蘭越町。1959(昭和34)年には、蘭越町椎茸生産販売組合が結成され、蘭越上には「しいたけ乾燥場」を新設。

この計画で、シイタケ栽培の講師を務めた上杉寅雄指導員が自らも研究をして、新品種「蘭越一号」の栽培に成功。寒冷地向けの早生種菌の「小林75号」は、東京の菌類研究所から最優秀品種に指定されました。1962(昭和37)にはシイタケ栽培戸数は517、ほだ木数42,626本、生産数量7,278kgになりましたが、その後、シイタケ栽培が全道に普及し、価格が低迷したことにより、栽培は下火となりました。

みらいの森を創る運動

1996(平成8)年、地域住民を中心に、尻別川とその流域の豊かな水環境づくりを目指すことを目的に発足した「しりべつリバーネット」。川に命の水を供給する森を守るため、1999(平成11)年から5年計画で、ニセコ町にある道有林の旧苗畑地を借り受け、「みらいの森」と名付けて植林を実施。行政の河川担当者、釣り人、ラフティング業者、漁業関係者、土木業関係者などが集まり、流域環境の改善のために植林。わずかながらも、確かに、未来の森の第一歩を踏み出しました。

森林組合

森林を守り、資源を循環させ、木材の有効利用を目指す「森林組合」。組織は全国に及びますが、北海道では、1939(昭和14)年の森林法一部改正に伴って、道庁が翌年に森林組合を奨励し、民有林の生産増殖を図ったのが始まりです。現在後志管内には「南しりべし森林組合」(蘭越町)と「ようてい森林組合」(京極町)があり、羊蹄山麓はもちろん周辺地域で活動しています。ようてい森林組合は、2006(平成18)年7月に共和町森林組合、北後志森林組合と合併し、事業範囲を16市町村に拡大。カラマツを中心に、植えてから粉になるまで有効活用することを基本に、木を植える「造林」、大きく成長した木を伐採する「造材」、伐採した木をカットする「加工」だけではなく、加工時に出る木の皮は堆肥に、オガくずは牛の敷きわらに、チップは歩道用材などに製品化し、森林を守り、資源を生かす活動を続けています。

後志の森林

羊蹄山麓エリアを含む、後志管内の森林面積は333,000haで全道の6%。カラマツ類、トドマツの針葉樹、ナラ類、カンバ類、シナノキ、カエデ、ブナ類の広葉樹で構成されています。また、後志は温帯の標徴種であるブナ自生地の北限としても知られるところ。有名な黒松内の歌才より北にある蘭越町ツバメの沢のブナ林が最北限の保護林に指定されており、研究者らから注目を集めています。

日時: 2007年10月25日 11:06