羊蹄山麓7町村の歴史

尻別川流域町村の生い立ちと変遷

古くは阿倍比羅夫が“行政の中心地”としたという言い伝えがあり、幕末には松浦武四郎が並々ならぬ関心を寄せた後志地方。鬱蒼と茂る原始林。中央に聳える羊蹄山。そのふもとを流れる清流尻別川。この大いなるフロンティアに根を張った後志7町村の開墾の歴史を紐解いてみましょう。

後志7町村の中でも、日本海に面した磯谷の海岸には古くからアイヌの人々が住んでいたことが確認されています。尻別川流域とその川筋は彼らにとっては生活の根拠地であるばかりでなく、和人との交易品の主要アイテムであった鮭の漁場として重要な位置を占めていました。その後、15世紀に入る頃から和人が姿を見せ始め、次第にアイヌの人々と雑居するようになったといわれています。

1599(慶長4)年に松前藩が蝦夷地を管轄するようになってからは、各地にアイヌとの交易の拠点である「商場(あきないば)」を設け、そこに和人が出向く形で交易を行い、藩の収入を得ていました。その後、「場所請負制度」が運用されるようになった享保年間(1716~1735年)以降は、商場が道内全域に拡がり、尻別川流域では、1766(明和3)年頃に東蝦夷地のアプタ場所が、1790(寛政2)年頃には西蝦夷地のイソヤ場所が開かれたと伝えられています。

時代が進み、1869(明治2)年に北海道開拓使が設置されると国郡制制定により道内は11国86郡に分割され、尻別川流域は後志国磯谷郡、胆振国虻田郡、胆振国有珠郡に属することになりました。開拓使は北海道の開拓にあたって「諸外国の先進技術の導入」と「開拓移民の保護」の2つを重要施策と位置付けましたが、初期の開拓事業は石狩川流域に重点が置かれたこともあり、尻別川流域地方の開拓は1886(明治19)年の北海道庁設置まで待たなければなりませんでした。

道庁の岩村長官の主導によって入植政策が積極的に進められるようになってから、尻別川流域にも数多くの地主農場が誕生しました。鈴木農場・広瀬農場・田中農場(倶知安町)、深貝農場・板谷農場・宮田農場・有島農場・近藤農場・曽我農場・太田農場・矢田橋農場・佐村農場(ニセコ町)、早瀬農場・川崎農場(真狩村)、加藤農場・黒田農場(留寿都村)、中川農場・三宅農場・稲村農場(喜茂別町)、京極農場・江川農場・大林農場・免見農場(京極町)などの大農場は、その後北海道有数の畑作地帯へと発展したこの地区の農業の基礎を築きあげたのです。

一方、尻別川の鮭漁も、1887(明治20)年頃に漁業権取得が認められてからは、乱獲を防ぐための試みが試行錯誤され、1907(明治40)年に結成された尻別川鮭鱒養殖組合によ って人工ふ化を実現。稚魚放流開始4年後の1913(大正2)年秋には多くの鮭の遡上が確認されました。

これら産業の発展に裏打ちされた生活の基盤を横軸とし、各地域への入植者が持ち寄った出身地の文化を縦軸として、後志地区の新しい集落の基盤が紡ぎ出されていったのです。

行政区の変遷としては、1872(明治5)年7月に後志地区最初の戸長役場が尻別(現港町)に置かれ、尻別村が誕生。その後、1899(明治32)年5月に南尻別村が分村され、1909(明治42)年に2級町村制を施行。1940(昭和15)年に1級町村制を施行し、1954(昭和29)年12月、蘭越町と改称しました。

一方、1882(明治15)年5月に設置された虻田村は、倶知安村1896(明治29)年4月と真狩村1897(明治30)年7月とを分村。以降、大正年間(1912~1926)にかけての間に、倶知安町は東倶知安村1910(明治43)年4月分村、と倶知安町1916(大正5)年4月町制に、真狩村は狩太村1901(明治34)年10月分村、喜茂別村1917(大正6)年4月分村、真狩別村1922(大正11)年4月分村、留寿都村1925(大正14)年改称に分村され、現在の7町村の原型が形成されたのです。

倶知安町の歴史

『北海道植民地撰定報文』に「クッチャン原野」という名が初めて記されたのは、1891(明治24)年のことでした。同書は、1886(明治19)年に設置された北海道庁が、約5年の歳月を要して開拓民入植地選定事業のための実測調査を実施し、まとめ上げたものです。これによって、それまで御料林(皇室の財産)とされていたクッチャン原野は、農業の適地として公示されたのでした。

1891(明治24)年には共同出資組合が組織され、翌1892(明治25)年5月、開拓の鍬が入れられました。当時の開拓者の暮らしぶりは想像を絶するほどに過酷なもので、住居のほとんどが屋根や壁をクマザサで囲い、ヤマブドウのツルや手製の縄で縛り付けただけの笹小屋だったと伝えられています。食事に至ってはトウキビやソバ団子が常食。そんな中で、原野が切り拓かれていったのです。

1893(明治26)年12月に「倶知安村」が設置され、「倶知安」という名称が使われるようになりました。開拓から3年目の1895(明治28)年10月には虻田村戸長役場倶知安出張所が設置され、翌1896(昭和29)年4月には倶知安戸長役場が開庁。以降、10年余の間に戸数2,500戸、人口15,000人に迫り、開拓先進地の岩内に迫る急成長を遂げました。

倶知安原野御料地は1894(明治27)年に開放され、翌1895(明治28)年からは植民地区画の貸下げも始まりました。これによって、山陰移住会社、鈴木農場、大縫農場(大崎農場)、伊藤農場など、大規模な農地の貸下げが行われ、以降、加賀団体、豊沢農場(広瀬・伊達農場)、成瀬農場、樺山農場、武岡農場、本願寺農場などが次々とこれに続き、原野はやがて豊穣な畑作地帯へと変貌を遂げていきました。

1904(明治37)年10月には村民待望の北海道鉄道(現在のJR函館本線)が開通。倶知安発展の牽引力となりました。1910(明治43)年3月には後志支庁が開庁。倶知安村は交通・文化・経済に加え、行政面でも後志の中核として位置づけられるようになりました。その後、1915(大正4)年4月に一級町村制を、翌1916(大正5)年4月には町制を施行して「倶知安町」となり、現在に至っています。

ニセコ町の歴史

ニセコ町に最初の開拓移住者が足を踏み入れたのは、1895(明治28)年のこと。前年1894(明治27)年にこの地区を占める御料林が国有林へ組み替えられたのを受け、この年には区画地の制定が精力的に進められ、開拓事業もにわかに本格化したのでした。ニセコ町の開拓も山麓の多くの地域と同様、本州の資本家が投資した農場や団体により開拓が進められました。全国的に有名な有島農場もそのひとつです。

その有島農場は、1922(大正11)年に開放されるまでニセコ開拓の中心的な役割を果たしてきました。同年7月、有島武郎が小作人を弥照神社に集めて行った「農場解放宣言」は、今でも町民に語り継がれています。農地を無償で譲り受けた小作人たちは、「狩太共生農団利用組合」を組織し、農場施設の一切を共有財産として運営。この体制は自作農創設特別措置法が施行される1949(昭和24)年まで続けられ、当時の社会に大きな影響を与えました。1924(大正13)年には小作人等の手によって、農場解放を記念した碑も建てられています。

行政区としては、1882(明治15)年5月に「虻田村」の所属となり、1897(明治30)年の分村によって真狩村の区域に編入されました。しかし、ニセコ町の区域である真狩村字真狩別太はまだ開拓が充分進んでいなかったこともあり、戸籍事務をはじめ各種用務のため戸長役場(現在の留寿都村)まで出向くのは大変でした。そのため、分村を望む住民の動きが次第に活発化し、1901(明治34)年9月17日には、初めての住民大会を開催。その陳情を受けて、翌月に北海道庁から分村の告示が出されました。このような短期間で分村が認められたのも異例のことで、真狩村から独立分村を果たした新行政区は、真狩村字真狩別太の狩太をとり「狩太村」と名付けられました。当時の戸数は308戸。戸長役場は元町に設置されました。

その後、1906(明治39)年に二級町村制を施行。1910(明治43)年には、ニセコアン(ニセコ、曽我)一帯が倶知安村から狩太村に移譲されました。さらに、1925(大正14)年には中昆布・柳の沢・桂の沢一帯が弁辺村(現豊浦町)から分割され、狩太村に併合、行政区域が次第に広範になってきました。

開村50周年を迎えた1950(昭和25)年には町制が施行され「狩太町」となり、1964(昭和39)年には「ニセコ町」に改称されました。この珍しいカタカナ名「ニセコ」への改称は、1936(昭和11)年頃にも検討されましたが、認められず、不発に終わった経緯があります。全国で2例目となった“カタカナ名のまち”は、その後四半世紀を経た後、ようやく誕生したのでした。

蘭越町の歴史

松浦武四郎のまとめ上げた「西蝦夷日誌」「後方羊蹄日誌」によると、蘭越町に和人が定住しはじめたのは1616(元和元)年ころで、現在の字清水薬の沢には宮崎と名乗る男が開墾のため入植したと記されています。また、1741(寛保元)年には尻別川の川筋に山稼ぎ人の仮小屋が300戸ほどあったという記述も見られます。

江戸末期から日本海沿岸は鮭などの漁業で栄えていたようですが、1858(安政5)年には現在の字初田ナガトロで青森県出身の中島吉松が農業を営んでいたことから、蘭越町の開拓は日本海に面した尻別川河口地域から、川づたいに上流へ移住者が移動し、開墾が進んでいったと推測されます。

本格的な開拓は、1871(明治4)年に旧米沢藩からの入植者5戸が現在の字共栄に入植したのを皮切りに、1877(明治10)年には津軽出身の浜名安蔵が移住しました。さらに、1882(明治15)年には石川県から狭間仁佐ら10余人がブイタオシ(現字御成)に、1888(明治21)年には青森県から苫米地金次郎ら17戸が大谷地(現字淀川)それぞれ移住。以降、各所に集団移住する者が増加し、次第に集落を形成していきました。

1901(明治34)年には藤田常作らの合同出資によりカムチャッカ漁場を租借。尻別を拠点とした北海道の北洋漁業の先駆けとなり、農地の開墾と漁業の両サイドからの開拓が推し進められたのでした。

行政区としての変遷を見ると、1872(明治5)年に箱舘支庁管轄の下で「尻別村」が発足。開拓移民が増加した1899(明治32)年8月には、尻別村から分村し、「南尻別村」として独立。現在の名駒町に戸長役場が設置されました。

1904(明治37)年に目名、蘭越、昆布に駅が設置されると、農林産物の流通が飛躍的に発展し、それに伴い交通・経済の拠点も名駒から蘭越へと移ったため、1914(大正3)年2月、庁舎を蘭越に移設しました。

1940(昭和15)年1月に一級町村制を実施。1954(昭和29)年12月には町制施行となったのを機に「蘭越町」と改称。その翌年4月には旧磯谷村大字北尻別村(現港町)を編入し、現在に至っています。

真狩村の歴史

北海道庁がマツカリベツ原野の区画を終えたのは1894(明治27)年のことでした。原始林に覆われ、熊が行き交うこの未開の原野に最初の開拓民が足を踏み入れたのはその翌年の1895(明治28)年で、これをもって真狩村の開基とされています。この時移住したのは神原弥吉、太平紋治、桑原留吉、南部石松、野村五平とその家族の5戸18人でした。

“未開の原野”とはいうものの、この地区は、開拓使時代は庄内藩(後の大泉藩)、伊達藤五郎の支配を経て1871(明治4)年に開拓使直轄地とされ、1882(明治15)年2月に開拓使が廃止された直後は三県一局の設置により「札幌県」に所属。同年5月からは「虻田村」の所属となり、北海道庁が創設された1886(明治19)年以降は札幌本庁の所轄となっていたのです。

1896(明治29)年には、高知団体33戸128人が集団移住。単独移住者も28戸100人に及び、さらに1897(明治30)年4月に北海道国有未開地処分法が施行され、国有未開地が無償で付与されるようになったのを機に、徳島の阿波団体(20数戸)、高知団体第2陣(6戸)をはじめとする移住者の数は大きな伸びを見せ、農場の開設、集落の形成に大きな弾みをもたらしました。これを受けて、同年、虻田郡各村戸長役場から分村し、真狩村戸長役場が創設されました。「真狩村」の誕生です。

その頃、早瀬農場・川崎農場1901(明治34)年、武井農場1903(明治36)年、中村農場・日野農場1904(明治37)年、加納農場1905(明治38)年など、数多くの農場が次々と開設されていきました。

1906(明治39)年4月には二級町村制が施行され、現在の留寿都村・真狩村・喜茂別町を所轄。役所は現在の留寿都地区に置かれました。その後、1922(大正11)年4月、真狩村から「真狩別村」が分村(二級町村制)、現在の真狩村の行政区が独立しました。当時の村民は750戸5,034人でした。また、村名は、1917(大正6)年に喜茂別村が真狩村から分村し、1925(大正14)年に真狩村が留寿都村へと改称したのを受け、1941(昭和16)年、再び「真狩村」に戻されました。

留寿都村の歴史

1871(明治4)年、仙台藩支藩の藩士・阿部嘉左衛門、牛坂喜四郎ら3人が現在の喜茂別町相川に入植し、最初の移住者となりました。このうち、阿部嘉左衛門は、現在の喜茂別町に駅逓所を開設し、その取り扱いを営んだことから、記録上では留寿都村での最初の定住者とされています。

1887(明治20)年から1918(大正7)年にかけての時期には、国有未開地の貸し付けおよび売り払いの許可を得て次々と農場が開設されましたが、この地区では比較的零細な農家が多く、生活は極めて厳しかったようです。

1887(明治20)年にはアメリカ留学で大規模農業を学んだ橋口文蔵が開拓地貸付許可を受け、入植。この地での大農場経営に挑戦しましたが、1891(明治24)年には加藤泰秋に譲渡。1900(明治33)年から翌年にかけて開設された西川農場も、元はといえば富田清五郎、大浜太郎兵衛、柴田政治といった開拓者の開墾地を譲り受けたものでした。このような事情は、斉藤牧場、石川牧場、中川牧場、関口牧場等にもあてはまり、西農場、阿部農場、山田農場、野上農場、金子農場などは農場を維持できず、売り払うところまで追いつめられています。1894(明治27)年に創祀された八幡神社(留寿都神社の前身)は、開拓の成功と家内安全を切実に願う人々の心の支えとなったのです。

一方、1893(明治26)年、三ノ原地区に入植した石井昌議の元では、管理人を務めた岸宇佐エ門が、初めて水車を制作し、運転に成功。マイナスをプラスに転換する諸技術の革新も着々と進められていったのです。

昭和期に入ると、登地区でのアスパラガス栽培が大きな成果を収め、馬鈴薯の品種改良も盛んに行われるようになり、開墾の苦労がようやく実を結びはじめました。

行政区としては、1879(明治12)年の町村編成によって「虻田村」戸長役場に組み込まれ、1897(明治30)年7月に「真狩村」として分離独立。その後、1901(明治34)年に狩太村(現ニセコ町)、1917(大正6)年に喜茂別村(現喜茂別町)、1922(大正11)年に真狩別村(現真狩村)がそれぞれ分村した後、1925(大正14)年2月に「留寿都村」に改称し、今日に至っています。

ちなみに、「留寿都」という名称は、安政年間にこの地を探索した松浦武四郎が『後方羊蹄日誌(しりべしにっし)』の中で記述している「ルソチ」(雑樹立)から採られたといわれています。

喜茂別町の歴史

喜茂別町の草創期における最初の重要な足跡は、1871(明治4)年に入植した仙台藩の支藩の藩士・阿部嘉左衛門による駅逓所開設でした。

1882(明治15)年5月から虻田村に属し、1897(明治30)年7月には虻田村から分村した真狩村に属すことになった経緯については、ニセコ町・留寿都村・真狩村と同様です。

1901(明治34)年には岩手県岩手郡本宮村出身の鈴木与助一族が中喜茂別(現伏見)の吉田孫太郎宅に草鞋を脱ぎ、入植を果たしています。さらに翌1902(明治35)年4月には、同じく南部団体10戸余りが当時の上尻別へ集団移住を果たし、ようやく開拓の鍬が入れられたのでした。

その後、1911(明治44)年には山梨団体253戸がソーケシュオマベツ・キモベツに入植しています。彼らの故郷の山梨県甲府盆地は釜無川と富士川の合流地点であり、高い山々に囲まれている山地部は気が低くて降水量も多く、しばしば襲われる大水害に人々は苦しめられてきました。そんな彼らの中に北海道の新天地で再起を図ろうという機運が生まれたのは、ごくごく自然な成り行きだったといえるでしょう。国庫の補助を受けての移住は、倶知安や弁辺村など後志の他地域にも及んでおり、この年、喜茂別町に入植した人々も、その前年1910(明治43)年8月に発生した大水害による罹災農民でした。

また、時を同じくして実施された福島県人80戸団体の移住も、山梨団体同様、水害と連年の凶作により困窮した人々がほとんどでした。いずれの開拓民にとっても困難を極めた開拓事業であったことは言うまでもありませんが、それでもなお北の大地は、彼らにとって、まさに再起をかけた希望の大地だったのです。

その後、1917(大正6)年4月に真狩村から単独分村。同時に二級町村制を施行して「喜茂別村」が誕生し、さらに1920(大正9)年6月には、徳舜瞥村(現伊達市大滝地区)の一部を編入し、行政区を拡大しました。

1952(昭和27)年7月には町制が施行され、「喜茂別町」と改称し、現在に至っています。

京極町の歴史

京極町の開基は1897(明治30)年の京極農場の開設に始まります。讃岐丸亀藩主・京極高徳子爵は、1895(明治28)年12月、北海道庁にワッカタサップ番外地約795町歩(約800ha)の貸付を申請。翌1896(明治29)年許可が下りると、旧藩士の児玉忠廣が開墾の指揮を執り、一足先に入植して向洞爺を開拓していた同藩の三橋政之の協力を得て、ワッカタサップの京極農場予定地を測量。その翌年に向洞爺から開拓経験者5戸27名を招き、入植させたのでした。

その後、1898(明治31)年には石川県から第1回の小作人16戸が入植。その後も石川県や富山県などからの入植が相次ぎ、1901(明治34)年には60戸ほどの規模に達していたようです。

植民地区画の設定と貸付けがはじまると、この地域にも大農場が次々と誕生しました。京極農場を筆頭に、江川農場1898(明治31)年、末次農場1902(明治35)年、中野農場1903(明治36)年、大林農場1904(明治37)年、山口農場1906(明治39)年、庄川農場1907(明治40)年、武井農場1908(明治41)年、能美農場1910(明治43)年などが開設されるなか、1905(明治38)年には倶知安と東倶知安(現京極町)の間に道路も開削され、入植者も増加の一途をたどりました。

1903(明治36)年、北海道庁は京極農場に土地の一部の返却を命じて公設の市街宅地として制定区画し、翌1904(明治)37年に岩内支庁において貸し付けの公示をしました。入植者の増加に伴い、商人の往来も目立ちはじめたため、市街地の設定が急務だと判断したからです。総区画は19,182坪で、官学校、郵便局、駅逓、社寺などの建設が進められたのです。

後志支庁設置の翌年にあたる1910(明治43)年4月1日には、官主導によって形成されたこの市街地を中心に京極町の前身となる「東倶知安村」が誕生(二級町村制)。開村当時、1,235戸(6,783人)とだった戸数は第1回国勢調査が実施された1920(大正9)年10月には1,830戸(9,852人)に膨れあがり、1923(大正12)年4月には一級町村制に昇格しました。

時は巡り、他の農場が相次いで開放されるなか、最後まで開放されずに残っていた京極農場が、1938(昭和13)年10月、ついに開放。翌1939(昭和14)年には村の基礎を築いた京極家へ謝意をこめて、村名を「京極村」と改称されたのです。その後、1943(昭和18)年に町制施行への機運が上がり、一度は村議会で可決されたのですが、戦時の緊迫した情勢下の中にあって、見送らざるを得なかったようです。待望の町制施行は、1962(昭和37)年3月の村議会において再び満場一致で可決され、同5月に「京極町」として新たなスタートを切りました。

尻別川流域町村の生い立ちと変遷

日時: 2007年10月25日 12:08