歴史のエピソード

ゼロ戦で着氷実験(倶知安町、ニセコ町)

スキーヤーの心を魅了してやまないニセコ連山の最高峰・ニセコアンヌプリ(標高1309m)。その山頂に気象観測所が設置されたのは、終戦も間近い1943(昭和18)年のことでした。

当時は北海道の基地から飛び立った軍用機が原因不明の墜落事故を頻発し、その原因究明が急務とされていたのです。生存者の証言により、飛行中の機体への着氷が一因であることが明らかになったため、日本航空技術協会(当時)から依頼を受けた北海道大学中谷宇吉郎教授が研究の指揮を執ることになりました。

中谷氏は2年間の基礎調査の後、研究に適した環境を持つニセコアンヌプリに白羽の矢を立て、8合目に小観測所、山頂に着氷研究所を構えました。小観測所の風調室には100馬力のモーターを駆使したプロペラを設置。秒速100mで過冷却した雲粒や霧粒がどのように機体着氷に作用するのか、そのメカニズムの解明に没頭しました。

また、着氷研究所では屋外の回転台の上に本物の零式戦闘機(ゼロ戦)を設置。正確な実測データ収集が積み上げられ、寒冷地の航空機の安全飛行を支える貴重な基礎研究を形成しました。

研究には第一飛行師団司令部(札幌)の野戦気象隊も参加し、調査活動は終戦を迎えるまで続けられました。山頂の研究員らの生活を支える物資輸送は、地元町民の協力によるところが大きかったと伝えられています。

中谷宇吉郎(1900-1962)

物理学者。石川県加賀市生まれ。東大卒業後、ロンドン留学。1930年に新設の北大理学部に赴任。教授となった1932年頃から雪の結晶の研究を始め、1936年には世界初の人工雪の制作に成功。結晶形成の生成条件を解明した。航空機の着氷防除、飛行場の霧消散、鉄道路線の凍結防止、融雪促進、氷雪凍土の研究など数々の功績を残している。エッセイストとしても知られ、「雪は天から送られた手紙である」との言葉を残したことでも知られている。

その業績を称え、南極の地名に「ナカヤアイランズ」、小惑星10152番に「ウキチロウ」、北海道の銘菓に「ウキチ」が命名されている。

彼の業績を記念して、ニセコアンヌプリ小観測所後の風調用モーターが置かれていた台座の上には、登山者の案内標を兼ねたモニュメントが建てられている。

昭和天皇御行幸(ニセコ町)

終戦後、昭和天皇・皇后両陛下は1946(昭和21)年から約9年かけて全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けました。北海道へは1954(昭和29)年8月7日から13日間滞在し、経済復興や文化発展の実態を視察。道民を直に激励されました。

8月19日午後2時30分倶知安駅着。2時37分町営グラウンドに設けられた奉迎所にお着きになり、奉迎にお応えになりました。その後ニセコ町に向かわれ、19日より3日間滞在され、奉迎場となった狩太小学校(現ニセコ小学校)校庭では同町および近隣各町村の代表者、小中学生・高校生等約4,000人が日の丸の小旗を手に迎えました。

また、奉迎場から宿泊所となったニセコ観光ホテルまでの道筋には玉砂利が敷きつめられ、沿道の家々では日の丸や紅白の幔幕を掲げるなど町を挙げての歓迎ムードに包まれました。

里帰りした「忠犬ポチ」(真狩村)

1916(大正5)年1月16日、真狩郵便局の第3代局長村上政太郎が猛吹雪の中、電報配達に出掛け、殉職するという痛ましい事故が起こりました。雪中に倒れた彼を体温で温めながら、その最期を看取ったのは彼の愛犬・ポチ。当時、新聞では「忠犬」として大きく報道され、道民の感動と涙を誘いました。

その後、札幌の児童福祉施設「報恩学園」に迎えられたポチは、晩年を子供たちとともに過ごし、死後は剥製にされて東京逓信博物館に展示されていました。

ポチの“里帰り”は、1987(昭和62)年秋、「忠犬ポチ」の物語を紙芝居にして再びスポットライトをあてた真狩高校の生徒たちが、修学旅行中に博物館を訪れ、実物と対面したのがきっかけで実現したもの。翌年、69年ぶりに故郷に帰ったポチを局長夫人の村上せつさんが目を潤ませながら迎えました。

日本最古のリードオルガン(真狩村)

少なくとも100年以上前に製造され、国産最古と推測されるリードオルガン(足踏みオルガン)が真狩村に保存されています。

このオルガンは、地元で農業を営む三野富美夫さんの曾祖父が1895(明治28)年に香川県から入植した際、妻が持ち込んだもの。もともとは実家のお寺で子供たちに音楽を教えるため使用されていたそうです。

その後、1906(明治39)年に真狩村立御保内(おほない)小学校に寄贈され、92年間にわたり分校での音楽教育に貢献してきましたが、1998(平成10)年、分校の廃校とともに、再び三野さんのもとに舞い戻ってきたのです。

長い旅を終えたオルガンは、2004(平成16)年、熟練技術者の手によって3ヵ月かけて復元され、同校百周年記念式典で懐かしい開拓期の音色がお披露目されました。

国産最古のリードオルガン

このオルガンはヤマハ製で本体の製造番号は「11162」。戦争で資料が消失たため、製造元でも製造時期が特定できないが、鍵盤数から明治期の可能性があるという。入植時に持ち込まれた経緯に依れば、岩内町に現存する国産最古のリードオルガン(1905年製)より古いことになる。

農村ユートピアの実現を目指した平民社農場(留寿都村)

本州からの開拓移民が続々と入植した明治後半には、全道各地に多くの農場が開かれましたが、そのなかでひときわ異彩を放っていたのが、「農村ユートピア」の建設を夢見た平民社農場でした。

幸徳秋水らが主催した「平民社」は、キリスト教のヒューマニズムを土台とした社会主義思想を標榜し、労働者に結束を訴えましたが、官憲の取り締まりが厳しく、宣教活動もままならなくなったため、1904(明治37)年、北海道での農場経営に隘路を求めたのでした。

入植地は、真狩村ノボリエンコロ地区(現留寿都村字泉川)。初めに足を踏み入れたのは、下級武士の原子基、旗本出身の深尾韶、農家出身の佐野安吉の3人で、喜茂別駅逓所に寄宿しながら、入植地まで徒歩で通って拠点となる開拓小屋を建てたと伝えられています。

しかし、筆や弁舌に秀でた彼らも、農民としての成功を収めることは叶わなかったようです。「北海道国有未開地処分法」により、5年で開墾を終え成功検査に合格すれば11町歩の開墾地が無償で付与されるはずだったにもかかわらず、土地条件が極めて悪かったことや、農業経験者が少なかったこと、霜害・雪害にみまわれ凶作が続いたこと等が仇となり、わずか3年で解散の憂き目を見ることになったのです。

ユートピア建設という壮大なロマンは見果てぬ夢に終わりましたが、当時の北海道が時の弾圧から開放されたおおいなるフロンティアであったことを、彼らの足跡から汲み取ることができます。

童謡「赤い靴」の里(留寿都村)

時代を超え広く親しまれている童謡「赤い靴」(野口雨情作詞、本居長世作曲)。そのモデルとなった女の子の像が、留寿都村の赤い靴公園に建てられています。

女の子の母・岩崎かよは、1905(明治38)年に平民社農場に入植。1907(同40)年に解散するまで同農場で開拓に従事したのですが、入植する際に、病弱で農場での越冬が望めそうもなかった愛し子をアメリカ人宣教師に託して来たのでした。後に札幌で出会った野口雨情の妻を相手に、かよは手放さざるを得なかったわが子への想いを切々と訴えたといいます。

「子を思う母の想い、母を慕う子の想い」を後世に永く伝えたい──1991(平成3)年に建立された「赤い靴公園」の女の子の像、「ルスツふるさと公園」の母の像には、そんな地元の人たちの想いがこめられているのです。

剣道のまち(喜茂別町)

「剣道のまち」としてその名を知られる喜茂別町に剣道連盟が誕生したのは、1952(昭和27)年11月。全日本剣道連盟創立の翌月のことでした。以来、優秀な指導者にも恵まれ、道内はもとより、全国および世界で数々の快挙をあげてきました。

1964(昭和39)年には喜茂別高校が全国大会に初出場。1967(昭和42)年には少年の部で全国初優勝。1976(昭和51)年には栄花英幸氏が赤銅個人全道大会で2連覇を達成。

1986(昭和61)年に念願の武道館が建設されると、町民の剣道熱はますます高まり、2000(平成12)年には栄花直輝氏が世界剣道選手権および全日本剣道選手権において個人優勝に輝きました。

家庭・学校はもとより全町を挙げての支援・育成があり、そこで育った剣士が後輩を指導するなか、強く優しい剣士の心が脈々と受け継がれているのです。

「赤い靴」の像

童謡「赤い靴」に因んだ女の子の像は、歌詞にも謡われた横浜・山下公園(1976年)、母・かよの生まれた静岡県・日本平(1986年)、女の子が短い生涯を終えた東京・港区麻生十番(1989年)にも建てられており、留寿都村の像は4体目。栗山町出身の彫刻家・米坂ヒデノリが制作した。

日時: 2007年10月25日 12:14