道路の歴史

海や川を船で往来し、陸上は踏分け道を利用していたアイヌの人たち。その径路に頼っていた時代から、道路開削の時代へと移った江戸末期~明治時代。先人たちが厳しい自然と戦い、大変な重労働を経て道路を開いたことで、羊蹄山麓エリアは発展の歴史を歩み出します。開拓と同時に道路の開削が進められると、交通網が充実。駅逓所や渡船場の整備を経て、現在の道路へと形を変え、経済の発展に欠かせないものとなりました。

松浦武四郎の開拓道路案

箱館奉行所が蝦夷御雇として松浦武四郎を採用し、蝦夷地の開拓と警備の強化を目的として調査を開始したのは1855(安政2)年。松浦は単に蝦夷地の調査にあたっただけではなく、蝦夷地の経営にも先見的な意見を持っていました。中でも最も重視したのが道路の開削。幹線道路構想には、オシャマンベ(長万部)、アブタ(虻田)から羊蹄山麓を通り、現在の中山峠を超えてサッポロ川(豊平川)を下って、石狩に達するルートなどがありましたが、残念ながら当時は実現ならず。しかし、国道230号、国道276号をはじめ、多くのの道道が彼の案に近いルートを採用することとなりました。

本願寺街道の開削

1868(明治2)年に開拓使が札幌に置かれ、北海道11国86郡、後志地域として17郡が誕生し、本州からの集団入地が盛んだった明治時代の幕開け。混乱の時代に後志の国道を語る上で不可欠な道路開削が行われました。それが後に宗教道路と呼ばれた東本願寺の新道開削です。

蝦夷地での布教活動に熱心だった京都を本拠とする東本願寺は、明治政府が北海道での開拓に力を注ぐことになると、その開拓政策に協力。移民を奨励すると同時に布教活動を進めることを決めました。まず、1869(明治3)年に軍川(いくさがわ)-砂川(現七飯町内-森町内)を開削。ついで開削されたのが1870(明治4)年の有珠新道(通常、本願寺街道)でした。当時の開削の課題は、旧開地の箱館と、本府建設中の新開地札幌をいかに早く結ぶか。開削ルートには、幕末に箱館奉行が開削した千歳新道と、松浦武四郎が踏査した経路の2つの案がありましたが、本願寺は後者を選択。ルートは、有珠郡オサルベツ(現伊達市内)-ソウベツ(壮瞥町内)-トウヤ(向洞爺)-ニゴリ川-シケコタン(シンノシケコタン)-カシップ-岩松-峠下-湯元(定山コタン)-ミソマップ(簾舞)-マクマナイ(真駒内)を経由して札幌本府に至る27里余でした。

工事に従事したのは、アイヌの人々、入植者、東本願寺の門徒たち。工事は幅3間に渡って伐木し、9尺幅の道路を開削。橋梁は13ヵ所、谷間に横板を敷いた場所は17ヵ所。工事期間は15ヵ月ですが、冬の中断期を除くと、1年に満たない突貫工事だったと言われています。この道路は、草刈り道に近いものではありましたが、先人たちの大変な苦労の末にできた有珠新道の開通によって、箱館-札幌間の交通は著しく便利になりました。

駅逓(えきてい)所

1869(明治2)年、開拓使が設立、1886(明治19)年、北海道庁発足と、制度改革が行われると同時に、内陸道路の開削が急ピッチで進められた明治期。幕末期の休憩・宿泊施設、人馬の継ぎたて場所として活躍した運上屋、通行屋は、開拓使の所管に属して、本陣、旅篭屋(はたご)、1872(明治5)年には駅逓所と呼ばれ、その新設が必要とされました。そこで、道庁は駅舎を官費で建設。駅馬、馬車、馬具などを貸与し、補助金を交付して駅逓所を維持。その後、制度規程の変更などがありましたが、1921(昭和21)年まで北海道独特の駅逓制度が続けられました。

1908(明治41)年12月現在の北海道内の官設駅逓所は211ヵ所。羊蹄山麓エリアで明治から大正にかけて開設された駅逓所は「喜茂別」「中山」「留寿都」「真狩別」「御保内」「ソーケシュオマベツ」「上喜茂別」「ルベシベ」「マッカリブト」「蘭越」「目名」「昆布」などで、喜茂別駅逓所の宿泊料は40~60銭、中山駅逓所は22銭でした。

国道5号線

1885(明治18)年、東京日本橋-函館-室蘭-札幌間が国道第42号線に指定。1907(明治40)年には路線が改訂されて、南尻別村を通るようになりました。これによって、東京日本橋-函館-長万部-蕨岱-大谷地(現蘭越町大谷)-狩太(現ニセコ町)-倶知安-小樽-札幌へと変更。1920(大正9)年になると国道第42号線は国道4号線となり、後に起点を函館に変更。1952(昭和27)年に函館と札幌をむすぶ現在の国道5号線となりました。

渡船場

道路が不完全だった上に橋も架けられていなかった開拓時代。浅瀬を選んでの徒歩は大変で、増水時はそれも不可能。尻別川のような大きな川になればなおさらでした。そこで、多くの人は渡船場から渡船を利用。1903(明治36)年に設置された喜茂別渡船場は、現留寿都村への団体や個人の移民が渡った渡船場で、尻別渡船場の渡し賃は人が2銭、馬が5銭だったといいます。ほかに御老園渡船場、ルーサン渡船場がありましたが、橋梁の架設によって、姿を消してしまいました。また、大正中期にはナガトロ渡船場、古茶津内渡船場、トンカラ渡船場などが活躍。渡船は昭和になってからも尻別川を横切る最短ルートとして利用され、1941(昭和16)年ころまではアサセ(蘭越町豊国東)-札幌開墾(蘭越町蘭越東)間で、昭和30年代までナガトロ(蘭越町初田-共栄間)で渡船が客を渡していました。エイハマ(蘭越町栄)-石渕間では、昭和40年代まで、名駒小・中学校に通学する生徒を乗せて運行。この頃は、両岸に張ったワイヤーに舟を結びつけて、ワイヤーをたぐってあやつるものでした。また、ニセコ駅の裏手、現在の芙蓉橋、真狩川出合のあたりにも、渡船場がありました。

日時: 2007年10月25日 13:00